昨今の語学留学ブームによってより一層身近になってきたフィリピン。リゾート地セブ島や首都マニラが盛り上がる中で名を聞くことが多くなってきた「バギオ」。今話題のフィリピン・バギオって一体どんなところなのでしょうか?
今回は人口・地理・気候・歴史・治安の5つの要素からバギオを解説していきます!
1. バギオの人口
バギオの人口は2018年の政府予測で約36万人強。2000年には約25万人であったということからも人口が飛躍的に増加している様子がわかります。フィリピン国内でのバギオという名前のブランドは高く、市民の約半数が学生ということからもわかるように圧倒的に若い都市でもあります。
優秀な大学も多いためマニラをはじめ国内各地から勉強するために学生がバギオにやってくるため今後も人口は増え続けるとみられています。まさに「学園都市」という名にふさわしい活気にあふれています。
しかし一方で、近年の圧倒的な人口増加によって交通量が増え、渋滞が至る所で起こり、排気ガスの量が増えているとも現地の人は言います。観光客らの増加によって物価の上昇、ゴミの増加なども問題になっています。
2. バギオの地理
バギオはマニラのあるルソン島の北部コーディリエラ地域の玄関口に位置します。マニラからは約250キロの距離にあります。標高は1400メートルほどで街には平坦な場所はほとんどなく、まさに山を切り拓いたという表現がふさわしい街です。丘がちな地形に家々が所狭しと建っています。市街地は東西南北8キロ圏にあって、人口の割にコンパクトな街となっています。
坂が多いためか自転車やバイクはほとんど見かけません。タクシーの初乗りがマニラやセブ島などに比べても安いため、現地の人もタクシーを利用して移動することも多いようです。
山の緑を背景に色とりどりな家々が映えて美しい景観を織りなしています。しかし世界的なサーフィンスポットとして名を馳せるサンフェルナンドにも2時間以内で出られるなど海へもそう遠くはありません。
3. バギオの気候
標高1500メートルの山岳地域に位置するため気温は1年を通して冷涼で過ごしやすいです。一般的にはマニラや他の地域に比べ8度ほど低いと言われていて、常夏のマニラが35度ある時でもバギオでは26度で爽やかな風が吹いています。逆に12~1月の冷え込む時期には10度を切ることもあり、コートが必要になることも。
季節は大きく分けて乾季と雨季の2つがあります。乾季は11~5月で澄み渡った青空が広がります。緑の多い街が一層鮮やかに見える季節です。フィリピンが特に暑くなる3~5月には大統領をはじめ政府機関がこぞってバギオに移動してくるため「サマーキャピトル」という呼び名がついていることもフィリピンでは有名です。
対して雨季は6月から10月。バギオの雨季は長く、フィリピン国内でも特に雨の多い地域として知られています。特に7〜8月は一ヶ月のうち雨の降らない日が2〜3日しかなく、ほぼ毎日雨と共に過ごすことになります。
またバギオという名前はタガログ語の「台風」に由来するように、台風の通り道としても有名です。長い時には山間のため4日間も停滞することもあるそうです。
もう一つ、バギオの名前には同時に「コケ」という意味もあるそうで、雨季の湿気はまさにそれを代弁しているかのようです。
雨季に来られる際は道路状態も悪くなるので注意が必要です。ただバギオには雨の日も楽しめるカフェや博物館などが数多くあるので雨季には雨季の楽しみ方も見つけられます。
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4. バギオの歴史
バギオの歴史はそれほど深くはありません。始まりは20世紀初頭、当時スペインとの戦争に勝利してフィリピンを占領下に置いたアメリカ軍がマニラの暑さに耐えかねたことに端を発します。暑さから逃れるように北へと歩を進めてたどり着いたのがバギオの地。
当時何もなかったこの場所をアメリカ人たちが保養地として指定したことが始まりです。その際に街の設計を担当したのが、ダニエル・ハドソン・バーンハム(Daniel Hudson Burnham)氏。ワシントンを設計した彼がバギオの街をデザインしたこともあって、フィリピンにいながらどこかさらに異国にいるような雰囲気を覚えることもあるでしょう。
街の中心部の窪地には彼の名前が付けられた公園もあります。街の真ん中に池がある様子などはアメリカっぽさが出ていますね。
また、バギオの歴史を語る上で欠かせないのがなんと日本人なのです。先に述べたアメリカによる開発において、マニラからバギオまでの山岳地帯に道路を建設することは当時最も難関事業でした。世界各国から労働者が集められる中で一際活躍したのが、勤勉な日本人労働者だったのです。
活躍を認められた多くの日本人がバギオに残り、現地人と結婚したりしました。その後第二次世界対戦時には状況は一変し、長い間日本人や日系人はこの地で苦しい時期を過ごします。その後現れたシスター海野氏によって徐々に評価を取り戻していき、現在に至ります。詳細はケノンロードと日本人。ぼくたちがバギオに来たのは偶然じゃない。にも書いていますので是非ご覧ください。
歴史の浅い都市として紹介してきましたが、バギオという名前がつく以前より周辺で暮らしていた山岳民族の人々も多く、今日においてもバギオから足を伸ばせば彼らの文化に触れることができる場所もあります。中には以前まで首刈り族として知られていたカリンガ族などもいます。もちろん現在首刈りは行われていませんのでご安心ください。
5. バギオの治安
バギオの治安について。一般的にマニラをはじめ、フィリピンの治安はお世辞にも良いとは言えません。しかし、おおげさでなくバギオに関しては事情が違います。実際に足を運んだことがあれば空気感の違いを肌で感じられるかと思います。
街を歩いていて危険にさらされるシーンはほとんどないです。というのも元々避暑地としてのイメージが名高く、政府系機関や行政施設なども多いため、至るところに警察や警備員が配置されていることが理由にあります。大学をはじめ教育機関がこの地に多いのも安全の証拠ではないでしょうか。
また仮に彼らの目が届かない場、例えばフィリピンで日常的に起こりうるタクシードライバーの値段のふっかけや「お釣りを持っていないから」と言って返さない行為などはバギオではまず起こりません。一説によるとそういった行為が発覚した際には一瞬で職を失うなど重い罰を受けなければいけないというルールがあるようで、皆法令を遵守しているようです。
またバギオ市の郊外にはフィリピンでも唯一のフィリピン軍士官学校があるため、万が一のことがあっても早急な対応が期待されます。以上のことからバギオにおいては「危険」という言葉はあまり感じらないと筆者は思います。
ただしやはり日本ではないので、スリなどは稀に起こるようです。くれぐれも安全な空気に身を任せてしまいすぎないようにお気をつけください。
【バギオの治安】在住日本人に話を聞きつつ治安状況と対策をまとめた
2017年にユネスコ創造都市に選出。フィリピン史上初の快挙
2017年11月2日にユネスコの創造都市ネットワークにフィリピンからバギオが選ばれました。
バギオは、クラフト&フォークアートのカテゴリーで、日本の金沢市や篠山市と一緒に選出。ルソン島の文化発展の交差点になっているバギオは、いわばアーティストのたまり場になっています。盛んに交流やベントが行われていて、今回の選出もバギオに1度でも来たことのある人から言わせれば、当たり前の結果といったところ。しかし、実際にユネスコの文化都市に選ばれた実績はこれから世界に対してフィリピンの文化を伝えて行く使命をになったことを意味しており、その動向から目が離せません。
ユネスコ・クリエイティブシティーズネットワーク(ユネスコ創造都市ネットワーク)とは
・ 文科省:ユネスコ・クリエイティブシティーズネットワーク(ユネスコ創造都市ネットワーク)について
ユネスコ・クリエイティブシティーズネットワークの目的は「文学、映画、音楽、芸術などの分野において、都市間でパートナーシップを結び相互に経験・知識の共有を図り、またその国際的なネットワークを活用して国内・国際市場における文化的産物の普及を促進し、文化産業の強化による都市の活性化及び文化多様性への理解増進を図る。
少しでもバギオに、フィリピンに親近感を持てたのであれば幸いです。準備ができたらバギオで会いましょう!お待ちしております。