大都市マニラや、リゾート地セブ島を有する国、フィリピン。
すれ違う日中韓の留学生や欧米の観光客とストリートチルドレン、大人から子どもまで全力で喜怒哀楽を表現しバスケットボールに熱中する人々。そして、自分がレチョン(豚の丸焼き。この国の代表的料理)にされるような錯覚を覚える日差し。
これが当時、無地のTシャツに30Lのバックパックを背負った学生の僕が見たフィリピンの印象だった。
今、僕の知るフィリピンとは違うフィリピンが眼前に広がっている。
ここは、バギオ。
街ゆく人はよく知る半袖のフィリピン人たちではなく、重ね着をしている。話しかけてみると、この国には珍しく少しシャイだ。何より違うのはここには、海がない。目につくのは緑ばかりである。
事前に調べるということをしない僕は、自身の再出発の街であるバギオについて実際に訪れるまで、ほとんど何も知らなかった。(無茶苦茶だと思う)訪れてからはじめて調べた情報としてのバギオは、約34,5万人(※セブの約3分の1。2015年調べ)気候は乾季と雨季にわかれ、気温は最高26℃、最低14℃といったところ。
しかし、体感は画面の中の情報よりも奥深い街である。
先住民の文化に日韓と米の文化が交差し独自の進化を遂げていて、ストイックな英語学校を多く有しカフェのレベルが高い。さらにフィリピン中から有名な芸術家が集まり、独特の感性を持った日本人が住んでいる。戦前に日本人が移住し、インフラを整えた歴史も興味深い。
24歳、新卒で入社後2年間勤めていた東京の商社を退職すると同時に、17年間続けたバスケットボールからも引退した。正直なところ、当時の仕事にも実業団での選手生活にも一切不満はなかった。
退職の理由は、就職活動の面接で滞りなく口から出た嘘か誠か自分でさえ分からない言葉たちのように、立派でも整合性のあるものでもなく、何となくというものだった。ただ、それが自然な流れのように感じていた。
みんなが心配してくれた職を失うことよりも、人格形成の大部分を占めたスポーツから離れたことの方が、僕にとっては大きかったと思う。
2年目のある日、担当していた企業のある山手線の大崎駅南口改札で、ふいに思い浮かべた地図が日本列島だったときには衝撃を受けた。いつも頭に描く地図は歴史や旅好きだったこともあり、幼少期からずっと世界地図だったから。
それは別に「日本なんて狭い」という思い上がりではなく、自分の中の当たり前が自分でも知らないうちに日々の何気ない暮らしの中で変化してしまうことがある、という事実に驚いたんだと思う。
もう1つは、その数ヶ月後に取引先の工場のある石巻を訪れたときのこと。
取引先の引率の方が「工場訪問の前に連れて行きたいところがある」と、案内してくれた高台は19歳の時にくたびれた灰色のジョーダンのパーカーを着て、ボランティアという言葉に自分なりの解釈も持たずただ呆然と3.11の爪痕を目に焼き付けた、あの高台だった。
思わぬ形で再訪したその場所でオーダーメイドで仕立てたスーツを着て立っていること、明日には東京で家賃9万円の新築マンションが帰りを待っていることに、強烈な違和感を感じたのを覚えている。
その違和感がなんだったかはさておき、未だにそこには広大な更地と架設住宅、あの時の爪痕があった。もちろん、その後の工場見学の内容は覚えていない。
退職後、実家に帰ると正月の帰省のときに一緒にビールを飲んだ97歳になる祖父が、ベッドから起き上がることができなくなっていた。
たった3ヶ月。
祖父が大切に保管していた特攻隊の仲間の遺書の写しを見せてもらったことがある。戦時中に見聞きしたフィリピンに関する話も聞かせてくれた。
零戦の整備士として様々な土地を経験し、敗戦直後は現在の北朝鮮で捕虜になり元山の収容所で囚われた後、生き延びて帰国した祖父。戦火をくぐり抜け、1世紀近くを力強く燃えた命の火が消えかかろうとしているとき、その目に今の日本はどう映っているのだろうか。
今、祖父の知るフィリピンとは違うフィリピンが眼前に広がっている。
ここは、バギオ。
ありえないほど近くでなる雷も
東南アジア特有の臭いを乗せているにもかかわらず涼しい風も
意味もなく人が集まり笑うバーハムパークも
好奇の目で見られるローカルのジムも
おしゃれの集うセッションロードも
毎日通う屋台で「what’s up!!」と声をかけてくるトランスジェンダーの店員も
旅で訪れたどの国のよりもふくよかな野良犬野良猫も
4000円程度で買える偽物のバスケットボールシューズも
まだ2ヶ月だが、その全てに来て良かったと思わせてくれる魅力があるし、日本人が再出発するのに適した土地だといえる条件も揃っている。一方で、どこに行こうが自分次第だという使い古された言葉を再認識した土地でもある。
そんな風に思わせてくれる高い志を持った日本人に、ここでたくさん出会ったからだ。
再出発などと偉そうなことを書いたが全てを脱ぎ捨てた気は毛頭ない。今までにもらった縁と恩が僕の武器だ。企画編集とライターとして携わらせていただいているこの仕事もバスケと旅の縁が元々のきっかけである。
たとえ何となくだとしても、厳しい山岳地帯を切り拓いてバギオが栄える要因となったケノンロードを作った戦前の日本人のように、分かれ道を選ぶのではなく進んだ跡が道になるような生き方を忘れずにいたいと、切に想う。
あとがき
記事といえるか疑問ですが、あくまで個人としてまっさらな状態で感じたバギオの第一印象と想いをとりとめもなく書きました。バギオや自分に興味を持ってくれる方がいらっしゃれば幸いです。
また、この文章が自分にとっても誰かにとっても答えではなく、問いになればと思います。