フィリピンの高原都市バギオには現地の人々と協力しながら植林や環境教育を展開するNGO団体CGN(コーディリエラ・グリーン・ネットワーク)があります。
参考:バギオで活動するCGNと栽培技師山本博文氏のコーヒーセミナー【前編】
今回はCGNの代表で20年間バギオに暮らされているという反町眞理子さんのインタビューをお届けします。
年間100万本の木をフィリピン・コーディリエラ地方に植えるなど活躍される反町さんの素顔とフィリピン社会、外から見る今の日本の姿など赤裸々に語っていただきました。前編の今回は反町さんがバギオに行き着いた経緯とCGNの活動コンセプトなどをご紹介します。
絶え間なくいろんなことをしてきた
はい、反町眞理子です。
— よろしくお願いします。はじめに、反町さんはバギオに来られるまで日本でどういったことをされていましたか?
もうだいぶ前ですけど、大学時代から文化系情報誌の編集に携わっていました。大学を卒業してからはジャーナル誌や旅行系をはじめ、ずっとフリーでライター、編集者、放送作家などいろんな仕事をしていましたね。
— 出版・メディアを満遍なくといったキャリアですね。バギオに来るに至ったきっかけは何かあったのでしょうか?
その中でアジア関係の映画祭の仕事をしている時期がありました。その出版物・ポスターの制作やチケット・カタログなどを作っていてフィリピンの映画監督と知り合いました。それが現在、バギオでイリリカやVOCASといったアートスペースの運営もしている世界的映画監督、キドラット・タヒミック氏です。その彼が日本でのアートプロジェクトに同行した先住民族の音楽家と結婚しました。
当時ずっと忙しく30歳も過ぎていたので「よし、フィリピンに行こう!」と思ってポッと来ちゃいました。その後、彼とは離婚しましたが、バギオが居心地が良くて、気がついたら20年です。
青天の霹靂。初めてのフィリピンは衝撃だった
— では結婚されてバギオにはじめて来られたということでしょうか?
いえ。学生時代にも一度バギオに来たことがあります。
— 学生時代にも来られているのですね。その時はどんな経緯でしたか?
当時は立教大学に通っていました。立教大学はキリスト教系の学校で、大学内にチャペル(教会)があり、牧師さんを中心に活動している団体がありました。その教会とマウンテン州の教会の結びつきが強くて、立教大学の学生をバギオとマウンテン州のサガダ、そしてさらに奥地の山岳地方の村に連れていくというワークキャンプがあってそれに参加しました。今でいうスタディツアーのようなものですね。
ただ当時フィリピンは戒厳令のマルコス政権下でちょうどマウンテン州も共産ゲリラがいたりして大変でしたね。
— ゲリラ!当時からそういった環境に飛び込まれていますが恐れなどはなかったのでしょうか?
そんなことになってるとは思っていなかったから笑。
— 事前に把握されていなかったのですね。
大学のスタディツアーですよ。行ったらびっくりしましたね。もう青天の霹靂。大きな銃を持っている共産ゲリラに夜中に呼び出されたり、それは恐かったですよ。
— ものすごくスケールが大きいです…。
でもその時に思いました。当時の日本はまだバブルの余波で景気が良かったし大学卒業にあたって就職先はたくさんありましたが、こうやって世の中のことを何も知らないまま就職して良いのだろうか、と。それで決めました。もっと旅をして、世界のことをこの目で見て知りたいと。
— 反町さんにとってターニングポイントとも言える強烈な出来事がこのフィリピンの山の中だったのですね。
そうですね。その時大学から20~30人くらいで行きましたけど、全員カルチャーショックでした。あの経験のおかげで私だけでなく参加した人たちみんな人生変わっちゃいましたね。
テレビのドキュメンタリー作家になった人、スイスの国連難民関係の事務所で働いている友達もいます。フリーのジャーナリストを続けている人も。たった3週間ほどでしたが、あまりに強烈な経験で、日本に帰ったあと普通の大学生に戻って、一般企業に就職できなくなっちゃった笑。
— それだけ衝撃的な体験をしたということですね。
中にはその後もフィリピンに通った人もいましたね。私もホームステイ先の人に第二次世界大戦中の日本兵に受けた暴行の話や、村の貧しさについての話を聞きました。「どうやってお金を貯めてここまで来たんだ?」と聞かれて「アルバイトをしてお金を貯めてきました」とは答えたけれども「少なくともお前にはここまで来るだけのお金を貯められるじゃないか」と言われました。
貧しさのレベルが全く違います。戦後、急激に経済発展してきた日本でぬくぬくと育った自分と、戦時中に日本が大きな迷惑をかけ、戦後も政府の補償が行きわたらず貧困状態から抜け出せないでいる山間部の人々の暮らしの間のギャップにショックを受けました。
全く知らなかった大戦中にフィリピンの山の中で起こったことを聞いて衝撃をうけ、ワークキャンプで帰国したのちに、一人で山岳地方に戻って、村人たちに大戦中に起こったことを聞いて歩き、「聞き書き フィリピン占領」(上田敏明著)という本を出版した参加者もいました。
目の前にあることを一生懸命に
1996年です。
— CGNができたのが2001年でしたね。
そうそう。5年の間に3人子供ができました。その間は子育てで忙しかったです。でもお金がなかったので山岳地方の先住民族の工芸品を日本に輸出して収入を得ていました。当時はアジア雑貨がブームで、ベトナムやインドネシア製の雑貨はずいぶん日本に入っていましたが、フィリピンのものはありませんでしたね。
それと夫が先住民族のミュージシャンだったのでCDを2枚制作しました。まだ幼かった子供たちを連れて、日本各地で竹の民族楽器作りのワークショップや民族音楽のライブのツアーをしたりしました。
— ここまでですでに何か映画みたいですね。
とりあえず目の前にあることを一生懸命やるんです、いつも。
その頃は子供も小さくてまだ学校にも行かなくて良かったのでそんなこともできたんですね。
フェアとシェアを。環境なんて全然興味なかった
— では今代表をされているCGNはどんなところから生まれたのでしょうか?
今では植林や環境教育に励んでいますが、正直はじめは環境問題ついての知識も関心も大してなかったです。時代的にもまだ環境問題が話題になることはほとんどない時代でした。
— えっ、それは驚きです。立ち上げにあたってどんな思いがあったのでしょうか?
フェアとシェアをコンセプトにしました。
フィリピンでは特にコネ社会の色が強くて、優秀な人がいても親戚だけが良い目をみたり、たまたま外国人と結婚しちゃった人だけがお金持ちになるとか。うちの子供たちが通っていた学校で「将来、どんな仕事につきたいですか?」という先生の質問に、子供たちが「外国人のお嫁さん」なんて答えているのです。
— 小学生でさえそんななのですね…。
男の子は未来の夢の絵を描いてもらったら、銃を持った兵士や警察官になった自分の絵を描く子供が多いのです。山岳地方の村では特に。そのくらいしか仕事が思い浮かばないのです。
— 確かに日本でもそうですが、フィリピン国内でも都市部との機会の格差は大いにあると感じます。
山岳地方の村には高校で優秀な成績を修めていても大学に進学できない生徒がたくさんいました。そんな子供たちに夢を抱くチャンスを与えたいと思いました。それでまず大学生を対象とした奨学金プログラムを始めました。
村には豊かな自然もあるし、貴重な伝統文化も残っている。村の人たちが協力し合う素晴らしいコミュニティもあります。金銭的には貧しいかもしれないけれども、そんな村の暮らしのいいところ、大事なものを残しながらゆっくりと発展していけたらいいなと思いました。村のよいところを客観的に理解できる将来のコミュニティリーダーを育てるための奨学金プログラムを始めようと思いました。日本の知り合いに声をかけて、里親制の奨学金プログラムを立ち上げました。それにともなってNGO団体としてフィリピンで法人登録をしました。
自分の豊かさを自分で規定すること
コーディリエラ・グリーン・ネットワークの活動の柱の一つが、環境教育です。山岳地方の先住民族の村々で、子供たちや学校の先生を対象とした様々な環境教育をやってきました。最近では、体験型のアートを使った環境教育ワークショップなどを行っています。村や森の中で土や砂を参加者の子供たちと集め、泥にはこんなにたくさんの色があるよ!それを絵の具にして、民話の挿絵を描いてみようよ!なんて活動だったり。
演劇を使った環境教育ワークショップもやっています。フィリピンは実は教育演劇という分野では世界でもっとも先駆的な活動をしている国なのですよ。その手法を参考に、環境問題をテーマにした演劇ワークショップを始めました。
— 環境演劇とはどういったものですか?
先住民族の村には森や自然と共生するための知恵を伝える民話がたくさん残っています。そんな民話をおばあちゃんやおじいちゃんから聞いてきてもらって、それをお芝居にしたりもします。また、村が抱える環境問題を、参加者の子供たちが調査して、それをテーマにして演劇作品にしたりもします。森林破壊、鉱山開発問題、水不足、ごみ問題など、演劇を作っていく過程で子供たちが情報をシェアし、原因や解決するための方法を考えていくことが大事なのです。
最終的には、私のような外国人に頼らないで、自分たち自身で村の自然環境の豊かさに気づき、それを守っていくしかありません。原発事故が起き、経済にも行き詰っている日本を目指すのではなく、少しずつ失われつつある自分たちの文化や自然を誇りに思えるような環境教育をめざしています。
CGNは日本のNGOではなくフィリピンのNGOです。スタッフは私以外はみなフィリピン人。山岳地方出身の先住民族です。スタッフも一緒になって、本当の意味で豊かなコミュニティをどうやって作っていくかという活動を続けているわけですね。
前編のまとめ
大学時代の衝撃的なフィリピンでのワークキャンプが伏線となり、30代でバギオに移住した反町さん。一元的にはわからない、子供を育て暮らしているからこそ見える問題とそれに挑戦し続ける姿。一体その力はどこから湧いてくるのでしょう。もっと知りたい、後編ではそんな反町さんの原動力であり生き方の核に迫ります。