現在はフィリピン・セブ島でレンタカー事業を営む佐藤健一さん。なんとセブ島に訪れた当初は、現地の方々と同じ水準の賃金で働かれていたそうです。なぜそうなったのか、なぜフィリピンへ訪れたのか、疑問が止どまるところを知りません。今回はそんな佐藤さんに、フィリピン・セブ島に訪れてからレンタカーサービスを始めるまでの、7年間の軌跡をお伺いしました。
— 改めまして、お名前からお伺いしてよろしいですか。
佐藤健一(さとうけんいち)と申します。
— 現在はお幾つでしょうか?
今年で36歳になります。
— セブ島の在住暦が7年くらいとお伺いしております。いつ頃に訪れたのでしょうか。
2008年ですね。
— それは膨大な歴史を抱えているかと思います。1年ごとに主なできごとをお伺いしてもよろしいでしょうか。
セブに来てから、ですよね。
— そうですね。1年目にこんなことがあった、2年目はこんなことが、3年目は、といった風にお伺いしたいと思います。
わかりました。フィリピンに来る前は営業の仕事をしていまして、私がセブ島に来たのは、そのときの知り合いがきっかけです。その方はフィリピン人のことが好きで「とりあえずセブ島に行ってみようよ」と誘われました。
1年目:フィリピン水準の給料で働く
はいそれで、友人を紹介するよってことで、向かうことになりました。それで、なんと結婚することになって。1年目の大きな出来事はそれですね。結婚しなかったらビザがなかったわけですから。まぁ、それも騙されていて、失敗してるんですけど。2008年12月に結婚して、空港に前ある(現在はない)ノートインカフェというところで働きはじめました。フィリピン人と同じ給料で。
— フィリピン人と同じお給料で?
そうです。帰ることができなくなって、ようやく見つけた仕事がそれでした。「おれが面倒見てやるよ」って言ってくれた方がいたんですけど、いざ行ってみたら日給が267ペソ(約800円)でした。正直、暮らすのが精一杯でした。
— 遊びにいくなどは、なにもできないですよね。
できないですよ、本当に。言葉も全然知りませんでしたから、ノートを買いメモをして必死に覚えました。毎日フィリピン人と一緒に仕事していましたから。ある日突然、身の回り全員がフィリピン人になりました。
— まずは、言葉を覚えるところから入ったのですね。
毎日聞いてると、もう耳に入ってきます。それこそ、マガンダン ウマーガ(Magandang umaga)とか、マーヨン ブンタグ(maayong buntag)とか、分かってくるんですよね。徐々にわかって、更にメモに書いていって。1年目はとりあえず、その喫茶店で働いていました。
— 1年目は喫茶店、ということですね。現在は無くなっていると。
そうですね、もう無くなってしまいました。
— その時の、日本円の手持ちはお幾らくらいあったのでしょう。
10万ぐらいじゃないですか。いやー、でもよく行ったなぁと思います。でも両親には「あなたが好き勝手に行くって、フィリピンに行ったんでしょ」って、言われました。
— ご両親からは厳しく言われたのですね。
はい。「なんで私たちがそんな面倒を見ないといけないの」って。
— 日本で営業をしてたのに、なぜ突然フィリピンにいっているのかと。
本当に「バカじゃないの」って言われました。「なんでフィリピンなんか行くの」って言われて「あなたが行くって言ったんだから責任取りなさいよ、とりあえず3年は我慢しなさい」ということで、我慢しました。
— それは、言葉にならないほど大変だったと想像します。
衝撃でしたね、やっぱり。それでもフィリピン人は差別をしないことが救いでした。僕がその給料もらっても「わあ、同じだー」って言うだけ。僕の方が低いときもあった。でもフィリピン人の皆さんはバカにしないんです。
あとフィリピン人はオープンでもある。「どこか遊びに行こうよ」ってなったら、皆でお金を出し合います。僕にたかってくるんじゃなくて。
その点は正直、すごいなーって思いました。フィリピン人すごいなと。お給料にはビックリでしたけど、お金が全てではないのかなって感じるようになりました。
— 心温まるエピソードですね。
で、そこで働いた時のマネージャーに『ロビンソン』っていう方がいまして、その人がすごく優しくしてくれました。ぼく、お金ないじゃないですか。そしたら「じゃあ飯食いに行こうよ」なんてよく誘ってくれて。有名なレストランに連れていっていただいたこともしばしばありました。
— マネージャーの方に色々なところに連れていってもらって、セブという土地を知っていったわけですね。
たくさん教えていただきました。本当に感謝しています。
— 1年目に一番大変だったことは、やはり生活でしょうか。
はい、生活ですかね。ひと月1000ペソくらいの、ボーディングハウスというのがあり、そこで生活をしていました。
— そこはセブシティ内でしょうか?
マクタン島にあります。もうベニヤ板を張り合わせたようなもので、上がこう、開いてるんです。トイレみたいな感じですよ。そんな所で生活してました。
— それは、すごい暮らしですね。想像もできません。ボーディングハウスはどのように探したのでしょうか。
働いてる仲間にききました。「安い物件があるよ、良いところがあるよ!」って紹介してくれて。いい物件って聞くと、期待するじゃないですか。でもまあ、しょうがないですよね。
— そこに、1年間暮らしていたのでしょうか。
半年ぐらいですかね。さすがに耐えられなくなってしまいました。「耐えられません」と喫茶店のオーナーに伝えて、その方のお家に住まわせてもらいました。
— そんな辛い暮らしの中でも、「これが嬉しかった」ということはありますか。
やっぱ、いいフィリピン人に出会えたことですね。正直、その時に面倒見てもらわなかったら僕はどうなっていたか分からなかった。見てる人は見てるんだなと、感じました。
— 働いてるときに感じた、ということですか。
いま振り返ってみて、ですかね。いま現在こうして生活できているので。その当時はもう「なんだよ誰も理解してくれないな」焦っていたと思います。でも振り返ってみると、分かってくれる人は分かってくれるんだなって思います。
— ははぁ〜。言葉に表せないほどに、実に濃厚な1年目だったのですね。
そうですね。
2年目:サリサリストアを開業
※サリサリストアとは、上記写真のような地元民御用達のコンビニ的なお店。窓口が格子で覆われていることが特徴です。食べ物・飲み物・生活用品などが販売されています。
— では、つづいて2年目の暮らしをお伺いしたいと思います。
はい。2年目はノートインカフェを辞めて、町屋マートというところで働き始めました。というのも仕事に慣れてきて「家から職場までが遠いから、せめて交通費分は給料に上乗せして欲しい」っていう頼みを断られてしまったからです。「50ペソだったらいいよ」と言ってくれたんですが、それは交通費よりも安くって。
— 町屋マートというのはたしか、お弁当屋さんでしょうか。
日本食材店ですね。そこに行きますと言って、辞めました。これが2年目の始まりですね。
— 2年目は、日本食材店で働き始めたのですね。なにか変化はありましたか?
うーん、仕事は変わりましたが、結局は同じでしたね。給料は同じで、仕事内容は食材の流しです。配達とかもやっていましたが、続いたのは半年ぐらい。その後はサリサリストアを始めました。
— サリサリストアって、格子がこう、ぶわーっとある、コンビニみたいなものですよね。ご自分で経営されてたのですか?
そうです。小規模でしたけどね。お米とか、油とか色々売ってました。卵やコーヒーなんかも。
— けっこう品揃えは豊富なのですね笑。それはお幾らで始めたのでしょうか。
5万円くらいじゃないですかね。サリサリっていうのはすごくいいんですよね。なぜかって言うと、インド人がお金を貸してくれるんです。いざお店を始めるじゃないですか、始めは上手くいかない。でもインド人がきて、けっこう簡単に貸してくれるんです。インド人てのは金貸しやってるんですよ。
— そうなのですね。
そう。で、毎日集金に来るんですよ。例えば1000ペソ借りたら2ヶ月かけて1200ペソで返します。つまり1日に20ペソずつ。お、これはいいなって思って。まぁ、そういうのも利用してました。なんか賢いんです、インド人。
— な、なるほど…いろいろな世界がありますね。
最初は自分のお金でやってたんですけど、するとそこに営業にくるんですよ。金借りてくださいねって。試しに1000ペソ借りました。
そうすると、いろいろと仕入れられるわけです。どんどん大きくしていくにはまわしていかないといけないじゃないですか。
まわそうまわそうという意識で頑張っていました。そうすると、たくさんのフィリピン人が来るんです。卵ないですか、油ないですか、塩ないですかって。
— そんなに来るものなのですか。
きますね、すごく。あとはフィリピン人機関の金貸しも「金借りてくださいよ」って、毎日のように来るようになりました。「あなたのストア、いいから借りてくださいよ、借りてくださいよ」って。
— お幾らくらい借りたのでしょうか。
最初は1000ペソです。それを返すと、ちゃんと返してくれたからと、3000ペソ。それを返すと5000ペソ、7000ペソ、とぼんぼんくるんですよ。まぁ、そんな中でやっていました。
— どんな風に始められたんですか。「テナント募集中」みたいな物件があったり?
たまたま、1日50ペソで借りられるそういうスペースがありまして、そこを借りて始めました。知りあいだったので30ペソで貸してもらって。
— 1日あたり50ペソ、ですよね。
そうです。毎日払うんです、月じゃなくて。毎日集金に来るわけですよ。「はい、払ってください」って。もし無かったら「じゃ明日100ペソね」って。
— その家賃50ペソとかが払えない日もあったんですか。
ありましたね。そういう時もありました。フィリピン人は結構、ウータンが多いんで。
— ウータン?
ツケですね。「2週間後に、給料入ったら返すから。缶詰ちょっと5個お願いします」みたいに。ダメって言うと「お前のところウータンできないんだったら、他で買うよ」って、他にお客を取られる。
だから「わかったじゃあ、ちょっと利息つけてもいいかな」みたいに交渉するわけです。物はなくなるんですけど、タイミングが悪くてお金払えない、なんてことがありました。
— 仕入先はスーパーマーケットでしょうか?
パブリックマーケットです。なぜかっていうと、一番安いんです。市場で買ってきたものに、1ペソ2ペソ乗せて売る。コーヒーであれば6ペソ。じゃ、それを7ペソで売ったり。
— 1ペソのもうけなんですね。
そうですね、大体は。米とかであれば大体2ペソから5ペソ。缶詰なんかは5ペソぐらい。ジュースだったら、そうですね…2ペソぐらいですかね。それでも1日まわしていくと、結構大きい金額になります。特に物が増えていくと「おっ、今日は5000ペソか」とかね。
— 売り上げが5000ペソ。
いいときはそれくらいでした。マイスっていう、とうもろこしが原料のお米みたいなものも結構売れました。あとタバコとかは、カートンで、パーンと売れました。他には冷たいジュースなんかも。
冷蔵庫は無かったので、発泡スチロールに氷を詰めて売りました。コカコーラがよく売れて、そのうち「お前のところでよく買ってくれるなら無料で置かしてあげるよ」と、コカコーラのサインが書かれた冷蔵庫借りられました。まぁ電気代もくうんですけどね。
— 無料レンタル。そんなこともあるのですね。
本当ですよ。とりあえず食ってかないといけないと、必死でした。
— ちなみに商品のラインナップをお伺いしてもよろしいですか?
僕のところでは、一番大きい時には、米、油、で、砂糖、塩、味の素とかそういう…。
— 味の素も置いていたのですか?笑
タバコ、洗剤、シャンプー、歯磨き粉とか全部。こっちは単発なんですよ、この、ほら、パックで入っているんではなくて、あとでサリサリストア行けば分かるんですけど、1つ1つ売れるんですね。タバコも1本1本売ります。「タバコ1本頂戴」「はーい」みたいに笑。
— 1本単位なんですね。
卵1個でもいいんですよ。お米1/4キロを18ペソとかね。割となんでも売ってました。
— よく売れたのは何でしょうか。
やっぱ、米とか飲み物(ビールなど)ですよね。あとは、洗剤。
— サリサリストアはどれくらい経営されていたのでしょうか。
1年くらいですかね。
— 1年。サリサリストアをやめた理由は何でしょう?
理由は、タクシー貸しをやり始めたことです。
— タクシー貸し?
要はフランチャイズを借りるということです。代理店みたいなものですかね。サリサリもやりつつだったんですけど、結局のっとられてしまって。あれは、しょうがなかった。
— サリサリストアが乗っ取られたのですか?
ええ、のっとられましたね。結局は。
— 例えばお手伝いさんが入ってこられて、そのまま乗っ取られるとか?
そう、やっぱ「ちゃんとした人を選ばないと」と、反省しました。最初は、なかなかわかりませんけどね。
— なるほど。2年目は町屋マートからサリサリストアの経営へと仕事が変わっていったんですね。2年目の中で、最も大変だったことは瞬間は何でしょう?
やっぱり、生活です。厳しかったです。
— 徐々に豊かにはなっていったのでしょうか。
いえ、1年目とそんなに変わんなかったです笑。
— なるほど。うれしい瞬間はやっぱり、色んな人との出会いですか。
フィリピン人とのつながりですね。その時も日本人とのつながりはなかったです。2年目は、そんな感じでした。
3年目:タクシー事業を開始するも、またもや乗っ取られてしまう
— 3年目は、タクシー事業を始められるのですね。何台ほど貸すしていたのでしょう?
そうですね。タクシーを貸す側です。貸していたのは3台で、初めは古い車を貸し出していたんですが、すぐにガタがきてレンタル料金をどんどん下げざるを得なかった。
— 始めから3台?
いや、1台から3台に増やしていきました。ゆっくりゆっくりゆっくり、増やしていくんです。
— ちなみに幾らで貸していたのでしょう。
その当時で、1000ペソですかね。
— 1日あたり1000ペソですか?
そう。でもその当時は1000ペソがいかに高いかよく分かってなかった。その時は11月・12月のクリスマスシーズンで、お客さんはよく乗るので良かったんですけど。でもやっぱり高い。
あとフランチャイズは最初に50,000ペソ払って買いました。それで始めは1台で、1台から2台、2台から3台という風に増やしていきました。でもやっぱり、ダメでしたね。
— ダメだった?
また、乗っ取られました。フィリピン人に名義を借りていたんですが、儲かることがわかったら、考え方も変わってくるみたいで。急に「それは私のものだよ」って変わるわけです。
— なるほど、その人の名前で借りているわけですからね。
そう。ちゃんと弁護士を通した契約をしていれば、まずそういうことはないですね。これもいい経験になりました。3年目は、だいたいそんな感じでした。
前半のまとめ
フィリピン人と同じお給料で働き、歯を食いしばりながら生き延びる佐藤さん。のちにサリサリストアを開業するも乗っ取られてしまい、タクシー事業も乗っ取られてしまう。そのエピソードにぼくは、開いた口がふさがりませんでした。それでもめげずに前を向き続ける彼は、その後なにをして生きていくのか。