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人生

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もうかれこれ30年以上も前のこと。僕はほとんど「事故」でアメリカに1年住むことになった。

当時16歳だった僕は、ただ飯を食って排泄し、漫然と寝たり起きたりしてる「糞袋」のような存在だった。友達も少なかったし、勉強も運動もできなかった。自分の居場所がないから仕方なしに学校に行き、授業中は寝て過ごした。

親は僕に「やればできる!」と言い続けたが、どうにも響かなかった。何もかもがとにかく面倒くさく、かったるかった。

以前に一生懸命やったことがなかったわけじゃない。水泳と美術だ。でも、唯一のプライドのよりどころだった水泳を「受験の邪魔になるから」と問答無用でやめさせたのも、「絵描きで飯が食えるか!」と一蹴したのも「やればできる!」と連呼する同じ親だったから、素直に聞く気になんてなれなかった。勝手なことを言う大人たちからのお仕着せはまっぴらだった。かといってこれといってやりたいことがあるわけじゃない。家にも学校にも自分の居場所がなく、よく夜になると家を抜け出しては深夜の街を徘徊していた。

偶然 ~ほとんど「事故」でアメリカに住むことが決まる~

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高校2年になる頃には、さすがに「そろそろなんとかしないとまずいな……」と思い始めたが、どこからどうすればいいのか見当さえつかなかった。そんな時に偶然目にしたのが交換留学の案内だった。当時の交換留学というのは選ばれた者が行くもので、僕には何か遠い世界の出来事のように思えた。ところが、全くのシャレのつもりで応募してみたら、なぜかペーパーテストも面接も受かってしまった。意味がわからなかった。おそらく事務手続きの間違いだったのだろう。

英語を学ぶとか、異文化を吸収するとか、そんなことはこれっぽっちも考えてなかった。行ってしまえば、しばらくここから消えられる。現状をリセットできる、またとない機会のように思えた。先のことなんて何も考えず、僕はアメリカに行ってしまった。

留学先 ~アメリカでのホームステイ開始~

留学先 ~アメリカでのホームステイ開始~
行き先はオハイオ州という中西部の田舎だった。保守的な土地柄で、共和党の支持者も多く、僕が通った高校には広島に原爆を落とした人の孫が通っていた。日本のことなんてだれも知らず、「日本に侍はいるの?」とか「テレビはあるの?」などとトンチンカンなことをよく聞かれた。

僕を置いてくれた家庭は、もう成人して家を出た息子から、まだ小学生の末っ子まで4人も子供がいる、敬虔なクリスチャンの一家だった。お金のない家で常に汲々としていた。よく異国からやってきた僕を引き受けてくれたと思う。飾り気のない一家は、なんだか親しみやすかった。

言葉 ~英語がわからない。毎日11時間睡眠する~

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ところが困ったことに、英語がまったくできない。

どのくらいできなかったかと言うと、例えば”Behind”(後ろ)っていう単語さえ知らなかった。三単現も間違えたし、関係代名詞も現在完了とかもさっぱり分からなかった。英語の実力は中2の半ばぐらいでストップしていた。テレビもラジオも授業の内容も、周りが喋っていることも何ひとつ分からず、「ペラペ〜ラ、ペラペ〜ラ」としか聞こえなかった。

わからないなりに、英語を理解しようとするからだろうか?毎日果てしなく疲れた。毎晩7時には睡魔に襲われ、赤ん坊のように11時間くらい眠っていた。一日中無言で毎日11時間睡眠。僕のホストファミリーはかなり不気味に感じたんじゃないかと思う。

変われない自分 ~環境は人を変えない~

変われない自分 ~環境は人を変えない~
環境が変われば人は変わる。確かにその通りだが、僕が変わる兆しはなかなか表れなかった。相変わらずバカで甘ったれで根性なしの糞袋のままだった。いや、むしろ「糞袋化」がさらに進んだかもしれなかった。何しろ言葉が何もしゃべれないから、誰とも意思の疎通を計れない。毎日ただただ学校と家を往復した。

「なんでこんなところに来ちゃったんだろう?」

毎日そう思ってた。

80日以内に日本に戻れば、落第せずに復学できるらしい。そんなことばかり考えてた。

日本いた時には親や教師との関わりが煩わしくて、都合の悪い話には耳を貸さず、むやみやたらと反発していた。なんにもできないくせに、プライドだけはいっちょまえだった。「お前らの言うなりにはならないぞ!」という、大人たちに対する自分なりのアピールだったのかもしれない。しかしそれを親の庇護の元でやってたんだから、まったく「甘ったれの糞袋」だった。

キッカケ ~自分の居場所が出来たような気がする~

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ところが、異国の地でこうして「孤独」になってみて、自分がナンボのモノなのか、初めて考えさせられた。自分の甘ちゃんぶりが身に沁みた。言い訳もハッタリも屁理屈も何も言えない状況になって、

「自分の力で、裸で勝負しなくちゃ何も拓けない」

って初めて気が付いたような気がした。

当時はこんなふうに冷静に分析してた訳じゃない。自分なりに毎日がサバイバルだった。この素敵な家庭に嫌われないようにと、買い物やら薪割りやら率先して手伝った。ここにしか自分の居場所がなかった。

小学生のホストブラザーから少しずつ英語を憶えた。完全なバカではないことを証明しようと、あまり英語を必要としない数学だけは一生懸命やった。陸上部に入った。

1年間があっという間に過ぎて、気がつくと少しばかり英語がしゃべれるようになっていた。ホストファミリーとは本当に家族のように打ち解けた。友達もでき、彼らとは30年以上経った今でも付き合いが続いている。アメリカでもいろんな人の無償の愛を一方的に、無自覚に受けながら1年間を過ごした。

いつの間にか、自分の居場所が出来たような気がした。

別れ ~忘れられない出会い~

別れ ~忘れられない出会い~
そしていよいよ帰国の日。

「Bye. I will see you again.」

これしか言葉が出なかった。友達やホストファミリーと一人ずつハグして搭乗ゲートへと歩き出すと、どっと涙があふれてきた。

涙でよく前が見えない。

搭乗口に寄りかかるようにしながら、やっと飛行機に乗り込んだ。いつかこの世と別れる時にも、こんな気持ちになるんだろうか。

さようなら。アメリカ。さようならオハイオ。
まるで実の息子のように僕をサポートしてくれたホストファミリー、学校の先生、そして異国の友人たち。

あなたたちのことは永久に忘れない。

帰国後 ~将来が輪郭を現し始める~

帰国後 ~将来が輪郭を現し始める~
「いつかまた、この地に必ず戻ってこよう」

僕を英語学習へと駆り立てたキッカケは、そういう気持ちだった。そして再会した時には、少しは成長した自分でありたかった。

とにかく英語をもっと磨こうと思った。帰国した夏から、生まれて初めて自分の意思で机に向かうようになった。毎日FENの放送を聞き、英単語を覚え、英語の本をコツコツと読んだ。TOEFLの問題集を買ってきて、何周も何周もやり込んだ。

最初のうちは、200ページ程度のペーパーバックを1冊読むのに2週間以上かかった。TOEFLの点数も散々だった。でも受験するたびに点数が上がり、本を読む速度が上がり、それに伴ってぼんやりと将来がその輪郭を現し始めた。

「よし、通訳になろう!」最初はそんなふうに思った。やがて、アメリカの大学への進学を決めた。行き先はもちろんオハイオ州だ。コツコツと勉強を始めた僕の姿を見て、周囲の大人たちも安心したらしく、いつの間にかとやかく言われなくなった。僕はますます勉強に熱が入り、気がつくと成績が上がっていた。

未来 ~出会いが僕を変えてくれた~

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およそ2年後の1989年の初夏、僕はホストファミリーとの再会を果たした。

英語を覚えれば、確かに異文化を吸収したり、海外に友達を作ったり、就労の機会を広げたりできる。それが動機になって頑張る人もきっとたくさんいるだろう。

松井博
でも僕を英語へと駆り立てたものは、親身になってくれる異国の人々との出会いだった。そして、英語はその後もずっと僕の未来を切り拓き続けた。

英語を勉強するキッカケなんてなんだっていいのだ。それは何にだって当てはまる。流した汗は嘘をつかない。やり込んでいくと、やがて未来が少しずつその輪郭を見せてくれる。

沖電気工業、アップルジャパンを経て2009年まで米国アップル本社 シニアマネージャーとしてiPodやMacintoshの開発に携わる。その後、教育事業と執筆活動を開始。著書に『僕がアップルで学んだこと』『企業が「帝国化」する アップル、マクドナルド、エクソン~新しい統治者たちの素顔』、『10年後の仕事のカタチ10のヒント シリコンバレーと、アジア新興国から考える、僕達の仕事のゆくえ』などがある。

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