留学相談20181105
フィリピン留学, 人生

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【連載インタビュー】ストーリーシェア代表の松本さんのストーリー

バギオ唯一の日本資本の語学学校ストーリーシェア。多国籍を目指す学校が多い中で日本人向けの語学学校であり、自身のロンドンでの英語学習経験で効果のあったカランメソッドをもとに日本人の英語学習のクセに対応した独自のメソッドを開発・採用していてる。さらに、主流である留学エージェントからの経由ではなく、留学生の70パーセントが知人・友人等の口コミで学校の門を叩く。

フィリピンの語学学校でも異彩を放つ、この学校の独特のポジションはどこからくるのか。その鍵は経営者の松本文夫(通称:Mioさん)さんにありました。

今回はそんな彼の人生のストーリーをシェアしていただきました。

インタビュー:松本文夫(Mio)さん
英米比豪4か国で語学留学を経験。ベルリッツで語学講師を経て自身の経験をもとに確実に英会話を習得できる授業法を開発し、ストーリーシェアの経営者になる。フィリピン語学留学のパイオニアの一人。

 

よくいる学生、夢はサラリーマン

よくいる学生、夢はサラリーマン

– それでは宜しくお願いします。

宜しくお願いします。

– 不思議な雰囲気をまとっていらっしゃるMioさんですが、どうやってその性格や雰囲気は形成されていったのでしょうか。

僕は小学校の夢がサラリーマンだったんですよ。理由は家が自営業だったので、遊んでもらえなかった過去があったから。よく見ていたドラえもんの、のび太のお父さんみたいになりたいと思っていた。

– それ絶対クレオンしんちゃんのお父さんですよね。どちらにせよ、今のMioさんとはかけ離れていますね(笑)。

そうだね。だから、いつも進路を選ぶときの指針がイマイチぼやけていたんです。高校進学の時も、大学進学の時も。大学は応用が利きそうな、経済学部を選んだ。

– なんの変哲もない大学生ですね。どこの大学ですか。

色々あって国士舘に入りましたね。全然合わなかった。でも当時住んでいたのが様々な大学の生徒が住んでいる県人寮だったので、東大とか早稲田とか6大学の人たちと仲良くしていて彼らとは話があったし楽しかった。

舞台は社会人へ。サラリーマンの夢はいかに。

舞台は社会人へ。サラリーマンの夢はいかに。
– 国士舘っぽくないですもん。イメージで話しているので怒られそうですが。

でしょう(笑)。なんとなく4年になり就活の時期を迎えたんですが、就活も性格上まったく身が入らずで1、2件志望出して終えました。当時1999年でいろんな噂が飛び交っていた中で、普通のサラリーマンとか営業とかやりたくないと思ってしまって。

– ノストラダムスの大預言とかミレニアム問題とかですよね。

そう。それで考えた結果、自衛隊を選んだ。身体を鍛えながら時間も作れるので、その間に勉強とか読書とか芸術をしようと思っていました。

– 急にぶっ飛びましたね(笑)。就活というか自己内省をやった結果でしょうか。

その時期に1度きちんと自分を考えてみたんだよ。でも、そのあと大学内で予備校のバイトの募集を見かけて、月収が80万って書いてあったのにびっくりして騙されたと思って応募してみたんです。そこが分岐点。

– 月収80万ですか?!すごい。

結局その内容は歩合でしたけどね。でも、パートで3ヶ月入ってみて計算してみたら正社員になれば本当に80万くらいいけそうだったんですよ。それで正社員になってみたところ、2ヶ月目には月収が100万いって係長になった。1年後に課長になって、2年後には銀行から電話がかかってくるくらいには、貯金ができました。

– 話のスピードが一気に加速しましたね。内定を辞退して予備校の正社員になり、月収100万を稼いでいたと。具体的には何をしていたんですか。

担当指導員という進路や学習の相談に乗る役目と営業です。少し英語の指導もしてた。英語力はなかったけど、英語ではなく指導の仕方をしっかり体系的に学べばできる指導方法だったから。

なんでもできると動き回った20代後半

なんでもできると動き回った20代後半
– やはり、対人関係や会話とかの才能をお持ちなんですね。

単純に運がいいんだよ。予備校では上司がたまたま営業と教育を両立できる人で、それを全部盗んでやっていただけ。結構な高学歴が下に入社してくるんだけど、すぐやめていってたなぁ。いい上司についてちゃんと盗んでやればできることなのに。できない人が才能のせいにされているのをみていてすごく嫌だったな。

– まだ全然英語や海外との繋がりが見えてこないですね。

そこで5年仕事してた。それからお金もできてもう一度自分のやりたいことを考えたら、海外だったんだ。それを上司に伝えて長期休暇をもらおうと思ったら、全然休ませてもらえなくて、しょうがないからやめた。

– さっきのお話で行くと、相当貯金されていたんじゃないですか。

うん。でもたくさん貸しちゃってたからなぁ。当時の上司にも貸していて返ってきてないね(笑)。それが今あったら色々できるのになぁ。

– 何ですかそれ…。僕にもお願いします。2000万くらい。

いや、基本はもちろん断るけど、それまでお世話になっていたし、ご飯とかたくさんご馳走になってたからね。今は誰も彼の行方はわからない。

一番文化的、雰囲気的に興味があったロンドンへ

一番文化的、雰囲気的に興味があったロンドンへ
– それが27ですか。その後どこへ?

ロンドンに3ヶ月。この時に初めて英語をめちゃくちゃ勉強した。口コミしか信用しなかったから、現地にとりあえず行っていろんな人に聞きまくって学校を決めて、外国人とずっと一緒にいた。今思うと学習効率は良くなかったけど、みんな初めはそんなもの。やれること全部やったけど、結局伸びなかった。

– 伸びなかったんですか?!それはなんでですか。

半年、一年いたら喋れる感覚はあった。正確にいうと「自分が求めているほど伸びなかった」かな。それで別件で一時帰国したときに芸能事務所に入れる年齢制限が上限28歳だったから、急いでいくつかの事務所に履歴書を送って受かったから役者を始めた。

– また急ですね(笑)。色々すっ飛ばさないでください。

予備校や辞めるときにまた色々考えて、そのときすでに役者もなりたかったんだよ。やりたいことは全部やりたかったから、タイミングがあればすぐやるよね。そこで最初に英語を選んだのは、先に英語を学習した方が役者の幅も広がると思ったからだよ。

– あぁ、なるほど!「全部やりたかった」って、いいですね。そのピュアな気持ちと本当にやってみる行動力が今のMioさんのオリジナルの経歴を作ったんですね。はたから見たら突飛でも、Mioさんにとっては全部整合性がある。

うん。昔から学校の成績とかって平均3だったからね。能力はなかった方だったから、何か特別なとこしないと他の人と色の違いや差ができないじゃないですか。わかりきったことだよ。

英語との闘い

英語との闘い

– 自分をよく知っているって大事ですね。英語はどこにいっちゃったんですか。

役者を2、3年やったけど、やっぱりまた海外に行きたくなってNYに行ったんだよ。NYは2年くらい滞在予定だったんだけど、大金を盗まれて予定が狂った。

– そういうの多くないですか!!

それで、どこか別の場所で少ない予算で英語をマスターしてNYに戻ろうということになった。香港・シンガポール・マレーシアとかの学校を探した結果、フィリピン留学と出会った。これも徹底的に知人に聞くのとネット情報の両面から調べたね。

– そういう経緯でフィリピンにたどり着いたんですね。

その間にタイとかにも英語学習の偵察に行ったりしたけど、その後フィリピンに渡って例のやり方で色んな人に聞いて回って学校を決めた。そこからまた英語学習の日々が始まった感じかな。

つづく

はちゃめちゃな内容ですが、ついに舞台はフィリピンに。(笑)次回はいち留学者のMioさんがどのようにして英語をマスターしていったか。そして、この国で経営者になったストーリーをシェアしたいと思います。

昔から縁のあるフィリピンにて、肩書きのない個人として様々なことに挑戦しています。その中でこのフィルポータルでは企画・編集・執筆に携わらせていただいてます。旅と自然と言葉とバスケが好きで福岡→京都→東京を経て、フィリピンに流れ着きました。水のような風のような人生です。「何か一緒にしたい」という声もお待ちしてます。Twitter

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