前編のあらすじ
友人の誘いからフィリピン・セブ島へ訪れるもトラブルによりお金がなくなってしまい、現地水準の給料で働くことに。喫茶店勤務、食材販売店勤務のあとはストア開業・タクシーレンタル事業と仕事を営むも、乗っ取られてしまう。
タクシーのレンタル事業を乗っ取られてしまった佐藤さん。タクシーへの未練から、自らが運転手になることを決意。ドライバーのお仕事を通して、ビサヤ語(セブ島民の方々が話す言葉です)と、セブ島の地理をマスター。
【衝撃の7年】フィリピン水準の賃金で働くひとりの日本人が、セブで起業するまでの物語 〜前編〜
後編も、衝撃の連続です。
4年目:タクシードライバーとして働きセブに詳しくなる
— つづいては4年目。3年目にタクシー事業を乗っ取られたあとは、なにをされたのでしょうか。
そのあとは、タクシーの運転手をやりました。
— 貸したあとに、運転手をされたんですね笑
そうです。未練があって笑。タイガータクシーっていうところで、1日あたり750ペソで借りました。始めは道がわからなくて大変でした。
— そうでしょうね笑。どのように覚えていったのでしょうか?
タクシーの同僚に聞きました。「どうやって行けばいいんだ」って言ったら「お客さんに聞け」と言われました。「その通りだ」と思って「どうやって行けばいいんですか」ってお客さんに教えてもらいながら覚えました。ビサヤ語で。
— その頃には、ビサヤ語が話せるように?
まぁ今ほどではないですが、多少は。最も上達したのはその仕事を通して、ですね。で、お客さんを乗せて、あっちこっち行きました。その仕事でセブの場所は覚えましたね。
— タクシードライバーのお仕事で、いろんな場所を覚えられたんですね。
そうですね。
— 同時にビサヤ語も鍛えられて。
そうですね。でも、収入は250ペソでした。朝の6時から走っても。
— えっ?タクシーでも。
はい。きつかったですねー。朝の6時7時くらいにでてパーっと乗せてくんですけども、10時くらいになったらガラガラで。だから250ペソにしかならなくて。これはもう、長くは続かなかった。
— 日本人(=お金持ち)、ということで危険な目には合わなかったのでしょうか?
タランバンの、ピトスっていう山の方に行った際に、なりかけました。でも本当にお金が無くって「勘弁してくれ」って言ってタクシー台をタダにして、なんとか逃れました。
— 「金持ってるか?」みたいに聞かれたのですか?
聞かれました。「ほら800ペソしかないよ、これ取ってどうするの」って見せました。
— 無事に済んでよかったですね。
僕も経緯(タクシードライバーをやるまでの)を説明したんで。「何でお前こんなことをやってるんだ」「いやこんなことになって、僕もお金がなくて」って言ったら、「あーそうか。じゃ、そこで降ろして」といった具合です。
— あ。やっぱり質問されるのですね。どうしてドライバーをしているのかと。
結構ありましたよ。「あなたはフィリピン人じゃないよね」って。中国人か、コリアンか、みたいにいつも聞かれるんで、毎回「違うよ、台湾人だよ」みたいに国籍を変えてました。
— 今日は台湾人、今日は日本人、今日はコリアン、みたいに。
そうですね、当時はそんな感じ。いらだちましたよ、毎日毎日。
— たしかに乗るたびに聞かれたら、飽きますよね。運転手はどれくらいされてたんですか。
それも結構長かったです。1年くらい。
— タクシー自体は結構簡単に借りられるんでしょうか?
簡単に借りられますね。今はちょっとうるさいですけど。
— 例えば3日間くらい借りて「あ、いいや」ってなったら、もうそれ以降借りないとかも?
できます。
— 結構、インスタントな感じで借りられるのですね。
そうですね。簡単に借りられます。
トライシクルを購入し、地域の人に水を配達する
— タクシードライバーを経たあとは何をされたのでしょう?。
その後は水の配達をやりました。フィリピンのタクシーはガスで動いていて、のどは渇くし、肺は痛くなるしで。最近はガソリンに変わってますかね。そういうのがあって、辞めて水の配達やってました。
— タクシードライバーは体に悪いお仕事なのですね。
大変ですよ。だからいまは全部ガソリン車にしたんだと思います。
— 水の配達というのはどのようなお仕事でしょうか?
ボトル自体は見たことあると思うんですけど、それを10ペソで買って、20ペソで売ると。10個売れば200ペソ。やりーって。でも重いんですよね。
※フィリピンの水道水は飲めないため、飲み水は購入する必要があります。
— 手で持っていくのでしょうか?
はい、持って行くんです。
— え、それは大変では?具体的にはどこからどこまで?
ディスプレイしてるところから、ちょこっとですよ。あとは、トライシクルに乗って、運んでました。
※トライシクルはいわゆる三輪車のことで、フィリピンでは自転車やバイクの脇に荷台が取り付けられています。
— トライシクルに?笑。
乗せるんです、自転車の脇に乗せます。こうやって(ボトルを載せる身振り)。
— そのトライシクルも借りもの?
中古で買いました。
— おお、購入して笑。
20本配達すれば、結構おいしいですよ。「お、400ペソかー」となるわけです。やりーって。
ちょうどそのころ、カフェ(1年目の勤務先)のオーナーから「今日本語の先生探してる知り合いがいるんだよ」って電話がありまして、今度は日本語の先生をすることになりました。ゴールデンゲートウェイというところで。
5年目:フィリピン人に日本語を教える
— ゴールデンゲートウェイ。
はい。フィリピン人を送り出してる人材派遣機関です。僕その当時お金がなかったので、面接にジーパンで行ったんですよ。そしたら社長に怒られました笑。
「いや、お金がないのは分かるけど、最低限その、まぁええわ」みたいに。採用はしてもらったんですけど、あとでかなり怒られました。とまぁそんな具合に日本語の先生になって、すぐ「マニラに飛んでくれ」といわれて、飛びました。
— タクシードライバーの後に、日本語の先生といった経歴ですね。具体的にはどういうことをするのでしょうか。
フィリピン人をこっちで日本語勉強させて、技能を取らせて日本に送ります。僕は一条工務店の先生でした。一条工務店が派遣業務の会社に「フィリピン人に日本語を教えてくれませんか」とお願いするわけです。
今ですと、アイキューブとか、アイスマートとか、あるじゃないですか。そういうのをフィリピン人に教えるわけですよ。
— こっちで教えてしまうんですか。
そうです。マニラに現場がありますんで。そこで僕は日本語の先生として3ヶ月間研修してマニラに行って、日本語の先生として生活していました。3バッチくらい務めました。
— バッチというのは?
要は27期生、28期生、29期生…みたいな感じです。
— 1バッチでは何人ぐらい送るんでしょうか?
始めは30人。次は40人、最後は50人でしたね。建築業界は忙しいんじゃないですかね。
— フィリピン人の方はどれくらいしゃべれるようになりますか?
ごく一般的な会話くらいですね。「何を食べましたか」「魚を食べました」「どこへ行きますか」「スーパーへ行きます」「誰と?」「佐藤さんと行きます」みたいな会話は分かります。
— マニラに滞在されていたときもあったのですね。期間はどれくらいでしょうか?
10ヶ月くらいですかね。
— 言葉はどうされていましたか?セブとマニラでは言葉が違うと思うのですが。
セブの研修生を受け入れていたので、ビサヤ語は通じました。
— 日本の一条工務店などは、なぜフィリピン人を働かせるのか(日本人じゃなく)という理由はご存知ですか?
各国から受け入れてるみたいですけど、フィリピン人は優秀らしいです。日本語の覚えもよく、真剣に働くそうです。フィリピン人も、やっぱり男の人は働かないですけど、いざ仕事を見つけて、目標を与えると、変わるんです。180度変わります。
— 日本で働くのですよね?
そうです。3年間の研修ビザで大工のノウハウを学ぶと。
— 研修ビザというのが、日本からフィリピン人に発行されるんですか。
そうですね。
— 日本語講師のお仕事の様子を教えていただいてもいいですか?
はい。あ、これはビデオがあるので後ほどぜひ見ていただきいです。僕のスタンスは厳しく教えないというものでした。
というのも、マニラに渡ったときにぼくより先にいた先生に「佐藤先生。フィリピン人の人達には楽しく教えないとダメなんですよ。厳しく教えたって、真面目にやりません。帰って寝るだけですよ」って言われたんです。僕はその人の真似で教えました。研修生は、僕の時はいつも笑っていましたね。
— 笑いというのは、先生のやり方を見て?
そうです。いやー、すごく楽しくやってたんですけど。実はカメラがあるんですよ。日本語のクラス用に、日本と繋がってる室内カメラがありまして。日本の一条工務店が見てるんです。
そして僕が言うんですよ。「カメラを見て、日本の伊藤さんに向かって挨拶をしよう!」みたいに笑。
— それ、楽しそうですね、すごく。
楽しかったですよ。でもあるとき、「佐藤先生のやり方はすごくいいんですけど、日本サイドから見ると真剣味に欠けるので、もうちょっと真面目にやってください。」と言われました。
— なるほど。日本からは「もう少し真面目に」と言われたのですね。
そうなんです。カメラがありますんで。トイレ・通路・部屋の外など、なにをしているのかすべて監視されてます。
— そんなに監視されてるのですね。
でも、すごく嬉しかったですね。「先生、先生」って呼ばれることが。「せっかくだから楽しくやろうじゃないか」ってことで、やってたんですけど、やっぱりちょっと度がすぎたんですかね。
— 度が過ぎたというのは?
マニラで3バッチ終えたあとはセブに戻って日本語講師を継続していたのですが、あるときに言われたんですよ。「佐藤さん、申し訳ないんですけど、やめてもらえますか」と。「すごく面白いんだけど、真面目さがない」というのが理由で。
— きちんと成績が伸びていても、その点は厳しいですね。
「フィリピン人には厳しく教えても伸びない」といってやめました。その後しばらく仕事がなかったのですが、生徒から電話がかかってきました。「先生、コールセンターの仕事あるけど、どう?」って。そのあとはコールセンターで、仕事をしていました。
— その頃の収入っていうのは、よくなっていましたか?
けっこう良かったです。50,000ペソ。
— 50,000ペソ。かなり、増えましたね。
どーんと上がりましたね。まぁ、5年目はそんな生活をしていました。
6年目:電話の鳴らないコールセンターで働く
日本語の先生を辞めた後は、コールテック、というコールセンターで働いていました。僕は日本語のエージェントの電話を取ってたんですけど、電話が鳴らないんですよ。
— 電話が鳴らない?
鳴らないんですよ。8時から勤務して、1本もない日もありました。夜勤なんですけど、こう、電話の前にこうやって座ってるイメージです。
— 夜勤をされてたのですね。電話1本のために8時間くらい、待たれるのですか。
そうですそうです。で、たまに10時間。
— 10時間…!
まぁ、楽ですよね。座ってるだけなんで。電話も早取りじゃないんで、ぼく宛て(日本からの電話)は自分のところに鳴るんですよ。楽でしたけど、そのうち中国に拠点を移すことになって、ビザが取れないということで辞めることになりました。
— 中国は労働ビザが厳しいのですね。
そうですね。中国は取れないみたいです。
— 中国で海外の人は働けないってことですか。
日本人は取りづらい、という風に言われました。そうすると、また仕事がないじゃないですか。
— ちなみにその当時はどこに住まわれてたのですか?
5,000ペソくらいのアパートですね。その向かいに住んでいる人に、次の仕事を紹介してもらいました。
— なるほど、コールセンターのお仕事はどれくらいされてたのでしょう。
はい。全部で8ヶ月くらいですね。その後はアベンダ山ってところに行って、すごく日本語の上手いフィリピン人に「佐藤さん、通訳募集してるけど、どう?」って誘ってもらいました。いくつか面接を受けて、東洋フレックスという会社の日本語学校で働くことになりました。
— 日本の製造業は、フィリピンに日本語の学校をいくつか持っているのですね。
そう。しかしこの時は働き始めるまでにちょっと時間がかかりました。面接は受かったんですけど「こちらは採用したいんですけど、日本サイドの社長がイエスって言わないんですよ、佐藤さん」と言われて、それを待つことになりました。それが製造業に関わる最後の仕事でしたね。
— なるほど。通訳は、ビサヤ語と日本語でしょうか?
そうですね。
— 日本語とビサヤ語通訳出来る方は少ないと思いますが、他にもいらっしゃいましたか?
日本人はぼくだけでした。あとはフィリピン人。僕より日本語が上手い人もいましたね笑。
— 通訳のお仕事はどれくらいされてたのですか。
10ヶ月くらいじゃないですかね。この仕事は僕から辞めました。環境が良くなかったので。
— そうなのですね。このあとはいよいよレンタカー事業に着手すると。
そうです。
7年目:ついに、マンゾクレンタカーを起業する
— レンタカーを始めるまでの経緯をお伺いしてもよろしいでしょうか?
やっぱり、こっちでの交通機関に満足できなかったことですね。海に行くツアーなんかに参加すると、運転の荒さがひどかったり、運転手の勤務態度がよくなかったり。せっかくの楽しみが半減してしまいます。
— なるほど、佐藤さんがされているのはツアーとレンタカーがセットというかたちでしょうか?
そうですね。
— では、ドライバー付きツアーみたいなイメージですね。
そう。ドライバーにもリスクがないと思いまして。タクシーは借りるところから探さないといけないんで。今後はおそらくフランチャイズの価格もあがりますし、僕は持ち主になろうということでレンタカーを始めました。
— 車は購入されたのですね。
そうですね、お金を借りて。覚悟を決めて。でもこれだけじゃいけないので、通訳みたいに、周りの人をサポートできたらな、というのも考えています。だから、観光ガイドライセンスをとりたいです。
— そのライセンスを持つと、どういったことができるのでしょう?
ガイドとして、お仕事ができます。日本人でセブのガイドなんていないんじゃないですか。
— たしかに、いませんね笑。ではレンタカーを始められたのは最近なんですね。
去年の6月ですね。
— 勉強はされたのでしょうか。レンタカー業界の下調べといいますか。
そうですね、最初は行き当たりばったりでした。周りの状況を模索しながらやってて、今はもう大体わかりました。
— マンゾクレンタカーの売りはどういうところですか?
マンゾクレンタカーの売りですか。やっぱり、満足していただけることですかね笑。いやいや、お客さまとの出会いを大事にしていきたいという想いですね。
— 今後はずっと、レンタカーを続けていく予定でしょうか?
はい、あとはやっぱり皆さまのサポートです。何か困っていることに対して、何か僕に出来ることを提供したい。今まで経験してきた全てを活かせることができたらなと思っています。
— その2つを柱に今後は仕事されていくと。
そうですね。そういう困った人がいるんであれば、そういうこともやっていきたいなと。
— それは、屋号を構えたり?
まだですね。ゆくゆくはそういう風に考えていこうかなと。
— レンタカー事業の調子はいかがでしょうか。
まだまだこれから、ですかね。知っている人が少ないと思うんですよね。セブ島でレンタカーという発想がない。今はインターネットの時代なので、こういったものをきっかけにもっと知っていただければ、絶対に来ると思っています。
— なかなか、これは相当濃厚な7年間でしたね。最後に、サポートしたい方々に、なにかメッセージがあればお願いします。
セブで困ったことがあったら佐藤まで。マンゾクレンタカーもぜひ。
— ではでは、ありがとうございました。
後編のまとめ
タクシードライバーの仕事を通して、セブ島の地理とビサヤ語をマスターしたという点が衝撃的です。その後も現地のコールセンターで働かれたり日本語をフィリピン人に教えたり。後編も始終、開いた口がふさがりませんでした。「一期一会、フィリピン人との出会いがぼくを救ってくれました」という一言が印象的でした。