フィリピン随一、今やアジアで最も知名度の高いリゾートと言っても過言ではないセブ。特に高級ホテルとリゾートビーチの広がるマクタン島にはかつて一人の伝説の男がいました。男の名前はラプラプ。今ではマクタン島主要部の都市名にもなっている彼は一体どんな人物なのでしょうか?
今回はフィリピン好きなら知っておきたいラプラプのお話。
大航海時代とフィリピンの意外なつながり
世界の流れと当時のフィリピン事情について迫っていきましょう。
大航海時代
中世ヨーロッパにおいてアフリカ大陸にほど近いポルトガル、スペインは長い間イスラム勢力の駆逐に追われて疲弊していました。そんな中で両国は、海へと新たな可能性を見出していきます。
定かではない地図に加えて、外敵や病気など高リスクな航海は危険そのもの。しかし新たな航路を開拓することは、莫大な報酬を得ることができる。
貧民であろうと成果を出せば一発逆転の人生を歩むことができると知った男たちは海を目指すようになりました。
ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ南端を回ってインドに到達すれば、イタリア出身のコロンブスはインドを目指してアメリカ大陸を発見しました。
15・16世紀はそんな探検家による大航海の時代です。
香辛料など物々交換が主な目的だった15世紀の航海に比べ、16世紀に入ると海へ出る理由が変わっていきました。これはヨーロッパで勃興してきたプロテスタントに対抗するためにカトリック教会が海外へと活路を見出したことによるものです。
つまり布教活動です。ちょうど日本にも、この時代にフランシスコ・ザビエルがポルトガルからやってきました。
世界で初めて世界一周したと言われているマゼラン艦隊も、ザビエルのような宣教師を船に乗せて航海をしていました。実は、マゼランは航海の途中で亡くなっています。生き残った彼の部下たちが無事にスペインに戻って地球が球体であることを証明したという話はご存知の方が多いかと思います。
そんなマゼランが死に絶えた場所が他でもないマクタン島なのです。そしてマゼランを討ち取った人物こそが今日においてもフィリピンの英雄とされるラプラプ。
16世紀のフィリピン
マゼラン一行がフィリピンに到着する16世紀前半、群島国家であるフィリピンは今のような形(ひとつの国家)では存在していませんでした。
それぞれの島ごとで特に干渉しあうこともなく、山の民、海の民によるゆるやかな物々交換によって生活を成り立たせていました。
1380年よりフィリピン南部ミンダナオ島から順に現在のマレーシア、インドネシア方面よりイスラム教が布教。それらの国も今でこそ国家ですが、当時は無数の島がそれぞれ存在していただけでした。
セブ島やマクタン島も例外ではなく、マクタン島の首長ラプラプも、もともとはイスラム教徒。
やがてマゼランがセブ島に上陸すると、当時セブ島の王であったフマボンは、マゼラン艦隊の軍事的実績を聞かされ、怯え上がり無血での改宗を選びました。一行は直後にセブ島の目と鼻の先にあるマクタン島にも改宗を求めますが、ラプラプは認めませんでした。
激怒したマゼランはマクタン島を襲撃し、強引に改宗を迫ることを決めます。マゼランの軍は船に搭載した大砲が主力を成していました。こうした情報をセブ島の住民がマクタン島にいち早く通報したおかげでラプラプは迎え撃つ作戦を考えます。
マクタン島は遠浅な地形で潮の満ち引きが激しく船で上陸するには難しい場所でした。自慢の大砲も陸まで届きません。それを巧みに利用したラプラプ軍は慣れ親しんだ浅瀬での戦いに持ち込みます。
重装備のマゼラン軍の靴には海水が浸入し、動きが鈍くくなっているところを攻める。地の利を活かしたラプラプ軍は、ついにリーダーのマゼランを討ち取ることに成功しました。
これによって未知なる海を突き進んだマゼランのロマンは、生き残ったわずかな船員に託される形となりました。航海途中のマゼラン軍が49名だったのに対して、ラプラプ軍は約1500人で迎え撃ったと言われています。
その後間もなくスペイン領とされますが、外敵の侵攻に勇敢に立ち向かったラプラプは今に至ってもフィリピンの心の英雄とされています。
※尊敬の意を込めてかマクタン島近郊で生息する高級魚にはラプラプという名前が付けられています。
ラプラプの事をもっと知りたくてマクタンシュラインに行ってみた
ラプラプがマゼランを迎え撃った場所は今マクタンシュラインと呼ばれる観光地となっています。シャングリラ・マクタンなどリゾートホテルの近くにあるため日々多くの観光客が訪れています。
セブシティ中心部のアヤラモール周辺からは200〜250ペソ(約470~590円)でアクセスできます。
入口周辺には日傘部隊も待機していて、いかにも観光地といった雰囲気です。
公園の中心には金色に輝くラプラプ像が堂々と立っています。海の彼方を見据えるその姿は今もなお外敵から島を守ることを約束しているように見えます。
ラプラプの視線の先には戦場となった遠浅な海とマングローブの木々があります。今は穏やかで美しい海となっています。
記念碑の後ろには戦いの様子の描かれた絵が掛かっています。ちなみに決戦のあった4月27日には今でも毎年マクタン島ではお祭りが開催され、ラプラプとマゼランの戦いが再現されるそうです。
またマクタンシュラインには不思議なことに敵対するマゼランの記念塔も立っています。マゼランはフィリピンを侵略した反面、今やフィリピン人の心の拠り所となっているキリスト教を布教した最初の人物でもあります。
この相反する2つのモニュメントが同じ公園内に建てられているところがフィリピンの歴史が一筋縄には説明できないところ。どちらが正義でどちらが悪というわけではなく、そんな多様な文化の交錯の中で現在のフィリピンが形成されてきました。
英語名 | Mactan Shrine |
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入場料 | 無料 |
開放時間 | 24時間 |
定休日 | なし |
住所 | Lapu-Lapu、Lalawigan ng Cebu |
教科書には載っていない!歴史を知りに世界へ出よう
最後に少し歴史のお話。こうして説明をしてきましたがぼく自身セブ島に来るまではマゼランのことは知っていてもラプラプのことは知りませんでした。
世界史の授業では欧米や中国史に比べて登場機会の少ないフィリピン。わずかに登場するのは植民地時代の話など。元々海、山、沼で多様な生き方を営んできたフィリピンの人々。貿易・侵略・植民地など外部の影響を受けながら独自の形を創り上げてきました。
当たり前のことかもしれませんが歴史を学ぶことで、そもそもフィリピンが日本とは違うと理解できます。「日本だったらこんなことありえない!」と驚くこと・不可解なことも多いかと思いますが、歴史を学ぶことで「そうなるよね」と納得することができるかもしれません。
「歴史を知る」ということは相手を認められるようになるための術だと筆者は思います。そんなヒントがセブ島にはたくさんあります。
撮影者:井上昂大