目がさめると天井にぶら下がった大きなファンが回転しているのが見える。
「ん〜…今日授業何時からだっけ…えっとバイトのシフトは…」
寝ぼけ眼でそんなことを考えていると気づくのだ。
「違う。今タイに来てんだ。ここはタイだ!あ〜今日は何しよっかな!」
今日はこれから何が起こるのか何一つわからなくて、誰と出会って夜には誰と食事を囲んでいるのかだってまだ知らない。ぼくは忘れない。そこに恐怖や不安などはかけらもなく、全身から悦びが湧くような、大声で叫びたくなるようなあの気持ちを。
19歳、それはぼくがはじめて獲得した“自由”だった。
あなたはどんな時に自由を感じるだろう?
あなたはどんな時に幸せだと思うだろう?
フィルポータルに参加して約半年。日々記事を投稿しているものの自分がどんな人間なのかということに触れる記述がなかったので、今回はぼくをぼくたらしめている大切な要素である「旅」について書いていきたい。
もくじ
旅とは気づき・発見の毎日だ
実は生活や自分史の中で、自らものごとを選択して、それを実行するという機会は今日ほとんどないし、多くの人も同様ではないだろうか?
もちろん大学受験や就職活動という場において選択とおぼしきシーンは訪れるが、その日本独自の制度については“当たり前”に通過すべきものとして無意識に受け入れられている。選択しているようで、実は大きな流れにはちゃんと則っている。当然ぼくも背後にある枠組みを疑うことはしなかった。
そんなときに旅はいい。大げさなことばかりでなくたっていつだって気づきの連続なのだ。
「あれ?バイクって5人も乗れるんだ!」
明らかに少年少女といった風貌の子供達が道路を颯爽と走っていくのを見るかもしれない。
「トイレに行ったらトイレットペーパーがなかった…」
そこに暮らす人々は不潔?
「そういえば最近は移動続きで3日もシャワーを浴びれてないな」
あなたはそれによって死んでしまっただろうか?
途上国と言われる地域ではこうした光景に日常的に出くわすことになる。最初のうちはそんな「とんでも系」の出来事に面食らってしまうことも多いだろう。
彼らはふざけているのだろうか?とんでもない。大真面目に生活を送っている。まずは目の前に現れては消える営みに対して、拒否してしまうのでなく受け止めてみるのだ。すると無数の気づきや発見があり、そんなことを繰り返していくうちに、自分の色眼鏡や自分にとっての“当たり前”というものがはじめて輪郭を現す。
それまで何も疑うこともしなかったこと、そもそも意識もしていなかったことが見えてくるようになる。
自転車のタイヤに穴があいたら新しいタイヤを買うものだとぼくは考えたけど、14歳の少年は野原で拾ってきたゴミを火で溶かして、それを穴にあてて塞いでしまった。
お金がないと人は死んでしまうとさえ思っていたのに、お金を持たないあの国では育てた作物や作った道具を交易することで、人々はつながりの中を生きている。
電気がないと不便だと思っていたのに、太陽を基準に暮らすあの村では、日が昇ると動物たちが鳴き始め、夜になると家族で火を囲んで寄り添い合う。
あるもので創る・直すという感覚。
貨幣というルールが最近現れたものだということ。
自然の摂理、自然への畏怖。
これらはすべて旅をしなければ決して持てなかった感覚だ。旅をすることによって得られる何よりの財産は一次情報や原体験の獲得であり、体験をもって体に浸透させられることだとぼくは思っている。それは自分の引き出しの中に蓄積され、懐疑的な日常シーンにおいても大いに判断材料として役に立つ。
「若いうちに旅をしろ」とはよく聞くが、その真髄はここにあるのではないだろうか?人生の序盤で自分の中に世界の規則を取り入れることがきっと、そんな忠告をする大人たちにとっても大きな指針になってきたのだ、と。
ぼくにもそんな一次情報が蓄積されているおかげで、できた決断はたくさんある。周りの常識が疑わしいと思ったとき、自分の中に対話できる世界があるというのは実に心強いのだ。
自由とは「選べる」こと。ただし、その選択に対する責任も求められる
旅の魅力といえば何と言っても「自由」にあるかと思う。
「出会い」も引けをとらないが、競うものでもないので両方大切な要素として挙げておく。
舞台はインドの街中、路上に出ているいくつかの屋台。
特にあてもなく歩くぼくは自然とカレーの匂いにつられて屋台に近づく。そこにはどんな名前なのかもわからないような揚げ物が陳列されている。インドの屋台だからおそらく値段も20ルピー(約30円)ほどだろうと予測する。
しかし、揚げ物の入ったショーケースをよく見てみるとハエが数匹飛び回っている。時折揚げ物に着地しては徘徊している様子を見て少し躊躇う。
「美味しそうだな。でも、ハエもいるな…」
迷ったが、まあなんとかなるだろうということで結局1つ買ってその場で食べることに。
一口食べると中から溢れるホクホクのポテト。もちろんカレー味。やっぱり美味いじゃないか!とさらにいくつか購入し、得意気に宿へ戻る。戦利品のようにありがたく完食して眠りにつくも夜中嫌な違和感で目が覚める。
あっという間にこの世の終わりとでも言えそうな腹痛に襲われ、トイレから離れられなくなった。思い当たる節はただ一つ。あの揚げ物だ。
ただ極端な話、あの揚げ物を食べようか迷ったのも自分であり、食べると決めたのも自分。そしてその結果、腹痛というリターンを受けているのも自分だということが今思うとなんだか清々しかった気がする。「まあ、自分のせいだし仕方ないか」と。(当時はこんなに冷静に考えていられなかったが…。)
自分が決めたことに対してリターンが返ってくるということが完結していて、ぼくにはとてもシンプルに感じられた。
というのも、日常生活ではどうしても周りを見て行動するクセがついてしまっていて、なかなか「自分で選んだ」という感覚は得づらい。そして結果痛い目に合えば、自分にそれを選択させた何かのせいにすれば済んでしまう。旅ではそうはいかない。一人で選択・判断をするシーンが多いからだ。
ぼくはこの一連のプロセスに「あー生きてるなあ。自分はここにいるなあ。」という手応えを感じることがよくある。
例が些細すぎてイメージできないかもしれないが、これは旅の行程に関してだって言える。次は南のあの街にも行きたい!けど北のあの村にも行きたい。そんな迷いの中自分で道を決めていく過程は、紛れもなく選択である。
その結果選んだ先で何かトラブルがあったとしても、なんとかその状況とうまく付き合って自分で切り抜けていくのだ。そして迷っていたもう一つの選択肢に未練を垂らしながらもそこには二度と戻れない、ということも一期一会の人生になぞらえられると言えば強引だろうか?
危機管理能力を研ぎ澄ます
なんだかんだ言っても日本は安全だ。今すぐに目の前で何かが起こってしまう気配や予感というものがほとんどない。「今日死ぬかもしれない」なんて注意を払って生きている人はまずいないだろう。
その点アジアやアフリカの地域ではどうしても日本よりも、「死」というものが身近に感じられる。それは社会の歪みが姿として現れた暴力的な犯行かもしれないし、病気という形でやってくることもある。さらに一部の地域では野生動物が思った以上に近くにいるかもしれない。
もちろん、ほとんどの国や地域ではそんなに頻繁に殺人なんて起きないし、病気や衛生面だってそれほど悪くない地域も多い。何もかも脅えている必要もない。ただ間違いなくそれは日本にいるときよりも近くにある。
高層ビルの建設が相次ぐ区画のすぐ隣には、昨日と同じ今日、今日と同じ明日を延々と繰り返す人々の生きるエッジな世界がある。サバンナの集落では今日も誰かが、あの小さな蚊によって命を落とす。
しかし、ぼくは旅をする上でこの「危険」という要素が不可欠だと考えている。「もしかしたら何かが起こるかもしれない」と思わされることがあると人はいつも以上に周囲の空気を敏感に察知する。いつもよりも多くの情報を取り入れようとする。こうやって、危機管理能力というものは磨かれていくのだ。
また写真家の星野道夫氏はこんなことを本に書いた。
アラスカの自然を旅していると、たとえ出会わなくても、いつもどこかにクマの存在を意識する。今の世の中でそれはなんと贅沢なことなのだろう。クマの存在が、人間が忘れている生物としての緊張感を呼び起こしてくれるからだ。もしこの土地からクマの姿が消え、野営の夜、何も恐れずに眠ることができたなら、それはなんとつまらぬ自然なのだろう。
『旅をする木』/星野道夫
死の緊張感を隣に眠る夜のことを贅沢だ、と表現した星野氏は43歳のときにヒグマに襲われて亡くなっている。
逆説的ではあるが、「死」というものを身近に捉えられるということは「生きている」ということを強く確かめさせてくれることでもある。日々に手応えがないと思うのであれば冒険に出てみるのも悪くない。
“旅”という名を借りた人生
こうして3つのテーマに沿って書いてみたわけだが、大事なことはすべて旅が教えてくれたとつくづく思う。少なくとも23歳の取るに足らない自分を形成するには十分すぎるほど、様々な学びを与えてくれている。まだ咀嚼しきれていない部分だってたくさんあるだろう。
「旅は人生」「人生は旅」とよく聞くけれども、ぼくは日常空間を離れて、異郷を旅することは、自分をシンプルにしてくれると考えている。遠くまで行ってはじめて自分の足元に気づく。そんなことが往々にして起こるのだ。別に「遠く」というのが単なる物理的な距離でないと思うのであれば外国でなくたっていい。