フィリピンに籍を置く日本資本の語学学校、ストーリーシェア。その代表を務めフィリピン語学留学のパイオニアのひとりでもある、松本文夫さん(以下、Mioさん)のインタビュー連載・第2弾。
前回は何の変哲もない大学生だったMioさんが、どんな環境に身を置いて変わっていったのか。そして、20代でニューヨークやロンドンに留学した後、フィリピン留学と出会うまでのストーリーをシェアしていただきました。
第2弾はフィリピン留学でどのように英語を学び、学校を作るに至ったかについてお聞きします。
運命の国、フィリピンへ。
– フィリピンでは、どのようにして学校や英語学習の手がかりを掴んだんですか。
それまで留学した国と同じように、まずは自分の足で現地調査。大勢の人に英語学習や語学学校の話を聞いて回って、慎重に学校を決めたね。もちろん当時のマニラは今とは全然違ったから、色々大変だったけどね。
–10数年も前のマニラだと、本当に混沌としていたでしょうね。現地入りして調査を始めてから、短期間で学校は決まったんですか。
今みたいに選択肢が多くないから、意外と早く絞れたね。現地調査中は、ラサール大学の附属の学校を紹介されたりもしたけど、グループ授業で価格も高かったのもあって、結局、韓国資本の語学学校に行くことになった。
– ロンドンから始まり、やっと現在に繋がる環境が整ったわけですね。
いや、学校はすぐ辞めちゃったね(笑)。
さすがMioさんすんなりとはいきませんね(笑)。今度は何があったんですか。
学校のボーディングハウスに寝泊まりすることになったんだけど、まだまだマイナーだったフィリピン留学とはいえ、もうすでに日本人が先に数人いて彼らが家庭教師をつけてボーディングハウス(学生寮)で英語学習をしていたのを見たのが原因。学校より当然安いし、これがいい!って思っちゃって。
– なるほど。皆さん個人で先生をつけていたんですね。
そういう人も多かったね。もちろん最初は皆、語学学校に入るためにマニラに来たんだと思うけどね。僕もそうだったし、その方法に気づいたときには申し込みも終えていた。
自分なりの語学学習を求めて
– 学校への入金も終えていたわけですよね。勿体無くはなかったんですか。
経験から何かが起きた時を想定して、最初の申し込みはいつも留学期間を短めに設定してたから大丈夫。正直なところ、最初から6ヶ月とか1年の留学を申し込む人とか凄いと思う。もちろん、経営側の本音はありがたいけどね。よっぽど信用できる情報か、体験留学をしたとか、そこじゃなきゃいけない理由がないとリスキーだと僕は思う。学校の良し悪しだけじゃなくて、留学には合う合わないがやっぱりあるから。
– 最近は情報が揃ってきたので、学校選びで失敗する人は減ったと思いますが、当時は本当に大変だったと思います。話は戻りますが、それで個人的に家庭教師をつけて、一日中勉強していたんですか。
家庭教師といってもひとりが1日中は付き合ってはくれないから、複数の先生を自分で捕まえてきてひとり2時間の授業を1日に何回か繰り返して学習してたなぁ。
– なるほど。
ひとりいい人がみつかれば、その人から紹介してもらえるからね。でも、最初はその形でやっと上手くいったと思ったんだけど、この方法も続けていくと先生たちに教えられる範囲や技術に限りがあるのがわかった。英語は喋れるけどきちんとした教え方を習ってないし、メソッドがないから。
– いい案だと思ったんですけどね。家庭教師作戦。
教科書ももちろんなくて文庫本とかのコピーだったから、全然僕のレベルにあってなかったのも良くなかったと思う。マルコス大統領の歴史の本とか、そりゃあ初心者には厳しいよね(笑)。
数カ国、何種類もの学習方法を試してたどり着いた答え
– 現在のMioさんからは想像できないくらい英語に苦労して、試行錯誤を繰り返していたんですね。
たくさん工夫はしたね。家庭教師方法を採用していた時は、授業の組み立て方も自分で考えた。例えば、イギリスで出会ったカランメソッドを元に自分が覚えたい文法、ボキャブラリー、イディオムを盛り込んだ文章を作って、それに沿った質問を先生に出題してもらって答えたり。
この頃の経験は、現在のストーリーシェアのメソッドや授業の組み立て方にすごく役に立ってる。
– その時の苦労が、のちに設立される語学学校できちんと役に立ったわけですね。情熱を持ってやったことは、何かに必ず繋がるんですね。
– うん。それでも当時は先生たちは僕が提案した通りにはやってくれなかったよ。そりゃあそうだよね、先生たちからしたら面白くないもん。フリートークが好きだし、義務もない。
– そうなんですね。いつどのようにして英語を習得したのか、一向に見えてきませんが…
僕の英語が伸びたのは日本語の教師になってから。
結局、ボーディングハウスを出てから紆余曲折あり、マニラ近郊にあるスラムに住んだんだ。その近くのご飯屋で出会った人たちと仲良くなるにつれて、彼らに日本語を教えたいと思ったのがきっかけ。
– 日本語教師になって、英語が伸びたんですか。
そう。ちゃんと教えるために、マニラの語学学校のベルリッツに講師として入って、語学を教えるノウハウを体系的にきちんと学んだときに飛躍的に英語が伸びた。なぜなら、教え方がわかるとどのようにして学べばいいか、よくわかるから。
長い年月をかけて、ついに英語を習得。ひょんなことから経営者に。
– 学習者としてではなくて、教え方を学んだ時に英語習得の糸口を掴んだというのは、大変興味深いですね。
要は、講師になるとベルリッツでは様々なメソッドを学ぶわけですよ。それを自分なりに咀嚼して、自分に合う学び方が見えたという感じ。講師陣のレベルを考えれば、ベルリッツの授業料が高いのには納得できる。
– あまりベルリッツについては存じ上げないのですが、とても興味が湧きました。
英語学習をやっていると、「学校選びも大切だけど自己学習だよ」って平気で聞こえてくる。生徒さんたちがいうのは全然いいんだけど、学校関係者や留学エージェントがそれをいうのは違うよね。本当にいい学校は、授業で十分に伸びる学校に決まってる。
– おっしゃる通りです。英語をついに習得されたその後は、マニラに残られたんですか。
自分が学んだことを共有したくなってオンラインをスラムの自宅に引いて、日本にいる日本人に対して実験的に授業をやってみたりしたんだよ。
– これまた行動力溢れるエピソードですね。
それで反響があってオンラインで本格的に授業をやり出し、それがミクシィでさらに話題になった。そのうち、日本からではなくてすでにフィリピンにきている日本人や韓国人の中から、多くの人が僕のところに来るようになり、学校を作ることになったんだよ。
– 凄いストーリーですね。やっと現在のMioさんに繋がりました。それにしてもミクシィ懐かしいです。
当時のミクシィの掲示板の影響はすごかったからね。その後、セブやバギオに学校を展開して現在はマニラの校舎が無くなって、セブとバギオのに2校づつで運営してます。
今思うとマンツーマンのオンライン英会話の方も続けていれば、面白くなっていたと思う。2年くらい後にレアジョブさんができて、業界を席巻しているからね。
つづく
お話を聞いていて、思うのは圧倒的な行動力。考えたことを実際に実現させている人の話は、やはり面白いです。
まだまだ、引き出しがありそうなので今後もお話を伺っていこうと思います。