2009年からフィリピンの首都マニラでNGOに支援を受けた貧困地域の子ども達の受け皿として、雇用の場を作ろうという目的で生まれたユニカセコーポレーション。その代表を務める中村八千代さんのインタビュー記事をお届けします。
国際協力に従事したのち、フィリピンで社会的企業を立ち上げた中村八千代さんにこれまでと、これからのお話をお聞きしました。前編ではフィリピンにたどり着いた経緯と、ユニカセの活動内容についてご紹介します。
中村 八千代(なかむら やちよ)さん
1969年、東京都生まれ。社会的企業ユニカセコーポレーション創設者にして、特定非営利活動法人ユニカセ・ジャパン理事長。36歳のとき国境なき子どもたち(KnK)の現地派遣者としてフィリピンに赴任。2010年5月にユニカセを法人化、8月にレストランをオープン。以来、貧困地域の子どもたちのケアや青少年たちに雇用の場を提供し続けている。
テロリストになりたい人なんていない
— よろしくお願いします。お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?
はい、中村八千代と申します。ユニカセコーポレーションの創設者で、ユニカセジャパンの理事長を務めております。
— まず初めに、フィリピンにたどり着いた経緯を教えてください。
30歳のときに起きたアメリカ同時多発テロがきっかけになり、国際協力に携わろうと決めたのがはじまりです。生まれた時からテロをやりたい人なんていないはずで、テロが起きてしまう社会の構造に問題があると思い至り、国際協力の道に進みました。
– なるほど。
緊急医療援助団体に従事したのち、国境なき子どもたち(KnK)という団体の現地派遣者としてフィリピンに赴任しました。赴任地は自ら希望したわけではないので、ご縁ですね。
— 9.11が人生の進路に大きく影響していらっしゃるんですね。私も3.11が自分の人生の進路について及ぼした影響が、かなりあると思っています。
フィリピンで感じた現場のリアル
— 偶然訪れたフィリピンでユニカセはどのようにして生まれたのですか?
印象的な2つの出来事が関係しています。まず、フィリピン到着の7日後に援助していた子の1人が射殺されるという事件が起こり、もの凄くショックを受けました。前の医療団体では直接現場に触れることは少なかったので、彼の死に直面し「これが現場なんだ」って本当に思ったんです。同時に、その子の魂が生き続けられるように何かしたいと強く感じました。
— それはかなりの衝撃ですね。頭で理解しているつもりでも実際に目の当たりにして、本当の意味で知れてなかったんだなって思うことがありますよね。
もう1つが教育支援をしていた14歳のある男の子に「なんで高校を卒業したお兄ちゃんお姉ちゃんたちは学校で一生懸命がんばっていたのに仕事がないの?僕は学校に行く必要が本当にあるの?」と聞かれたことです。
–実際に、そういう現状があったんですか。
それは当時の私たちが抱えていたジレンマでもありました。もう一度この本質的な問題をメンバーで話し合ったところ、「学校に行けるようになっただけでも私たちのやったことに意味はある」という意見も出たのですが、「学校で学んだことをどう社会に活かしていくか、もっというと生活に必要な最低限の収入がもらえるところまでいかないと意味がない」というのが私の意見でした。
–その子たちの人生はずっと続いていきますからね。
まさに、そうなんです。私は支援団体のメンバーでもありましたが、寄付者の一人でもありました。その立場から考えると、子ども達を学校に通わせるためだけに寄付したのではなく、子ども達の長い人生に対して寄付していたつもりだったので。
— なるほど。その2つの出来事がフィリピンで自ら現場の先頭に立ち続けるという姿勢と、雇用の場を作るというユニカセコーポレーションの現在につながっているわけですね。
あえて企業として運営するユニカセレストラン
— では、ここからはユニカセの活動内容についてお聞きしていきます。
フィリピンでの活動には三つの柱があります。1つ目は人材育成の場としての役割。2つ目は持続性という点も含めて企業として稼がなければならないので、この自然食レストランの運営。3つ目は社会的責任を果たす意味でスタッフたちがお世話になったNGOで現在支援を受けている子どもたち向けにレストランで食事会や、ワークショップをやるCSRとしての活動です。
— レストランのスタッフは支援を受けた青少年たちから雇用していらっしゃいますが、企業として運営する中で問題といいますか、日本の考え方とのずれなどがあったりするんでしょうか。
もともと成績や学歴は全く関係無く、本当にがんばる子やとにかくやる気のある子の中から面接やトレーニングを経て雇用しているのですが、それでも当初は無断遅刻、無断欠勤は当たり前でした。大きなトラウマがあったり発作的に症状が出るような、姿勢や責任感とは別のところに問題を抱えている子もいますし、難しいですね。
— 心に傷を負っている子もいらっしゃるんですね。働く意欲に関しては良い悪いは別にして、確かに日本とフィリピンでは根本的な意識の違いを住んでいて強く感じます。
その時のメンバーやひとりひとりの心理的状況にもよるので、この問題には特効薬はないです。諦めずにじっくり向き合ってきたことでで最近は大きな問題もなく、改善できてきたと感じています。
9.11で変わった人生。3.11が起きたときマニラでは
— 現在まで運営されてきて、印象的な出来事などはありますか?
フェアトレード品やお土産を売っているコーナーがレストラン1階にあるんですが、スタッフが自分の才能を生かした商品を作って売っていいことにしているんです。おみやげコーナーの売り上げの3割が家賃や税金になり、売り上げの7割は作成者である青少年スタッフたちの基本給にプラスで収入になるという制度です。多い子で月に4,000ペソ稼ぎます。
— それはいい制度ですね。先ほど話していた働く意欲にも関係しそうです。
それでクラウドとラモンという男の子が、普段はその売り上げを兄弟に渡したり光熱費に当てたりしていたんですが、東北大震災が起きたときに震災を知った彼らからその売り上げを「僕たちのこのお金を日本の人に何か使ってもらえないかな」と言ってくれたんです。ゴミ山で生まれ育った子たちが1ヶ月分の収入を寄付にまわすことがどれだけのことか。本当に嬉しくて涙が出ました
— 素晴らしいですね…本当に。
寄付をして終わりではなく、その半年後に現地がどうなっているか視察させてもらおうということで、その子たちを連れて岩手県の陸前高田や大船渡を訪問し、中学校で講演したり大船渡の学生さんたちと交流させてもらったりもしました。
–フィリピンに渡られた当時、14歳の少年の質問に真摯に向き合われたときのように、行動を起こしたその先のところまでフォローされていて、行動も伴っているところが素敵です。
パイオニアとして走り続ける
— ユニカセコーポレーションの今後について考えていることはありますか?
ユニカセ・インターナショナルにしたいですね。フィリピンではレストランという形でやっていますけれど、青少年育成事業っていうところは一括していろんな国でやりたいなとは思っていて、来年は個人的に縁も深いカナダに行こうかなと思っています。
–形にこだわらずあくまで目的を大切にしたい、と。
フランチャイズを勧められたりもしますが、ユニカセレストラン自体をこれ以上大きくする気はありません。何事にも適正な大きさが存在します。規模を大きくしなくても、うちがパイオニアとなればここをモデルケースとしてくれてムーブメントが広がってそこで雇用される人も増えるわけです。私はパイオニアとして走り続けたいですね。
— 「何事にも適切な大きさがある」これは見極めが難しいですが、とても重要な気がします。パイオニアっていう響き、いいですね。
人がやっていないことをやる。前例がないので、できませんていうのはありえない。前例ないことだからこそやるんですっていうのをやり続けたいんです。
インタビュー前半のまとめ
国際協力の一環で訪れたフィリピンで衝撃的な出来事に遭遇し、ユニカセ・コーポレーションを社会的企業として生み出した中村さん。従業員と共に泣き笑い、事業を継続してきた様子が伝わりました。後編では中村さんの生き方や感じていることにスポットを当てます。