今日、「英語学習」というポジティブな挑戦に向けて、多くの日本人がフィリピンへと渡ってきます。留学費用や航空運賃など、島国日本とはいってもアジアをはじめ海外に出るハードルはうんと下がったことは確かでしょう。
しかし留学をすること、海外に出ることで得られるのは語学力に限った話ではありません。
「フィリピン留学で英語だけ勉強してくるってコスパ(費用対効果)悪くない?」
今回は英語学習以前に、足を動かすことで得られる一次情報が自分の糧になる!という内容のお話です。(長めですが笑)少々お付き合いくださいませ〜!
説明する必要のなかった日本
目をそらしていませんか?日本人が英語を話せないたった1つの理由
英語を勉強してもなぜかスムーズにコミュニケーションがとれない。それは英語ができないからではなく、自分の中に説明できる答えがないことが原因。そんな内容でした。
突き詰めてみるとこれには「疑問を持つことのない環境」で育ってきたことが前提にあるのではないでしょうか?もう少し簡単に言えば「空気でなんとなく察し合える人々に囲まれた環境」とも言えるでしょう。つまり、ほとんどのことをわざわざ説明しなくてもみんな「当たり前に」知っている、共有しているのです。
説明できなかったのは「みんながそう言ってるから正しい」「だって当たり前でしょ」という周囲環境に起因するものと考えられます。陽気なあいつがいて、静かなあの子もいる。それでもやっぱり学校や地域に根付いて生きていると自分を説明する機会は少なく、斬新なアイデアも生まれにくい。
もちろん広く人々が同じ認識を持っていることで、不用意な争いを未然に防ぐことができたり、論理的な説明ではない抽象的な表現(詩や俳句など)に落とし込むことも覚えてきました。こんなことを言ってぼく自身も大の右脳派人間で論理的な説明なんてものは一番苦手です。
自分の頭で考えられないということ
ただし、周りの空気に合わせることだけを生きる指標にして、自分の頭で考えることをしないことは同時に脆弱な立場に立たされてしまうことも意味します。
ナチスドイツの総統アドルフ・ヒトラーは、著書『わが闘争』の中で、自身の宣伝戦略や思想をもれなく吐露していますが、中でも「大衆」という言葉を特に頻繁に用いています。以下はその代表的な言葉である。
「人々が思考しないことは、政府にとっては幸いだ。」
提供元:『わが闘争(上)』
右の人、左の人を見て判断をするということはシステムを動かす側、大きな権力にとっては都合の良いことなのです。
たまたま帰国していたので、先日個人的に参加したWEBメディアコンサルタント永江一石さんの登壇するイベントに参加してきました。当日の内容は以下リンクよりどうぞ。
SMIPS永江一石さん講演「パクキュレ問題の本当の被害者とその解決のために
以降は当日の内容に個人的な見解を加えたものです。
昨今世間を騒がせているキュレーションメディアによる事件では「パクリ」「誤情報」に対する責任や損失が問い詰められており、無断で借用された主であるメディアなどが被害者として紹介されています。
しかし、この事件で何よりの被害者は、そうした誤情報を「みんなの見ている人気サイトだから」と何の疑いもなく飲み込んでしまっている層なのです。情報リテラシーのなかった中年女性層が多いと言われています。多くの人が嘘の情報を基に商品を手にとってしまっています。カルトのターゲットになりやすいのもこの層だと言います。
ヒトラーの言う「大衆」のイメージに極めて近いのではないでしょうか。今回は例として一つの事件を取り上げましたが、考えてみると何かと不可解な点はまだまだたくさんあります。信じていた平和や安全の多くは虚像かもしれません。
人はどんどん移動したらいい
ここまで「当たり前」のこと、「自分の頭で考えないことによる危険」など話してきましたが、ぼくがこうした問題をはっきり意識するようになったのは決して昔の話ではありません。
猛烈な勉強家や歴史マニアなどは本を読む中で自分の座標に気づく場合もあるかと思いますが、ぼくのような怠け者は「楽な方」「リスクの少ない方」へと舵をきってしまいます。ではどうしたらいいのでしょうか?答えは簡単です。
「移動しましょう」
これに尽きます。何もいきなり引っ越したりする必要もありません。特にフィリピンであれば学生のお小遣いでも十分繰り出せますし、片道も日本から4時間ほどなのでおすすめです。身近で、異文化・異教を強烈に感じるのにこれほど適した地はありません。
人々の境遇や社会の空気、さらに細かく言えばサービスの質など。思わずツッコミたくなるポイント満載ですが、そんな時に逆に自分にもツッコミを入れてやるのです。「それは誰基準?」って。そうした場所に決まって「自分のものさし(色眼鏡)」を発見しますから。自分にも文化があったのだ、と。肌で体感する一次情報は確固たる自分を創ってくれます。
また、フィリピンには多様な留学生が来ています。年齢も職業も国籍も全く違う人を目の前に、あなたは自分を説明する機会を得ます。大学生なら大学生、社会人なら社会人、主婦なら主婦というような普段、仕切られた人々が一つの場所で面と向かうとき、気づきやアイデアは起こりやすいものです。大げさではなく、日本の中にいくつもの人のレイヤー(層)があることに気づくはずです。
基本的にアイデアなどというものは「組み合わせの可能性」だからです。自分の持っていたモノと相手の持ってきたモノをテーブルに並べたパーティのような場所に、新たな可能性が生まれます。
日本で所属している同質的な関わりから、様々なタイプの人間の集まるフィリピンに踏み出すのは、人生に何らかのスパイスとなることでしょう。「海外に行って価値観が変わる」とよく言われる所以はここにあるのではないでしょうか。
まとめ:「非日常」にたくさん触れる
記事を通して「同質的な関わり合いからの脱却」、そして「移動することのススメ」を説いてきました。しかし、ここで言う移動とは決して物理的なことに限った話ではありません。「知らない空気」の中に「異質(マイナー)な者」として入っていくことも含んでいます。
遠回りに遠回りを重ねましたが、結局それによって「当たり前」だと思っていたことは全く当たり前ではなかったということに気づくことができるのです。そんな出会いを繰り返して物事を捉える解像度を上げていくことも、フィリピン留学や旅の活かし方の一つの形なのではないでしょうか。